この漬を作品文庫に入れるに当つて、私は何の修正も行はないで元の儘に留めておくことにした。時代のクロニクルの意味を有する本書の如きにおいては、それが正しいと考へたからである。その論ずるところは、現在ではやや不適切になつた点もなくはないが、また現在において一層適切になつた点もあるやうに思ふ。
 嘗て芳賀矢一はその『国民性十論』(明治四十年)を次の言葉で結んだ。「鳴呼この過渡の時代、仏が出るか鬼が出るか。真に傀儡子の手箱の様な感がある。凡そ個人としても、その人の長所は直に短所である。我民族の美徳の底には亦必ずその欠点の潜んで居ることも知らねばならぬ。世界の舞台に出た以上は亦それだけの覚悟が必要である。変へるべき所は変へねばならぬ。守るべきところは守らねばならぬ。よく我過去を知つて、よく新来の長所を探る覚悟があらば、今の時は真に多望の前途を胚胎し得る時代である。今の時に之をなし遂げ得ぬ日本人は祖先に対しても済むまいとおもふ」。現代は芳賀がこれを書いた時よりも一層重大な意味において過渡の時代である。「鳴呼この過渡の時代、仏が出るか鬼が出るか」、我々の覚悟に依存するところが多い。この時代の一時期の風俗と精神的ミリューとモラルとを批評的に記録したのが本書であり、私自身としては、今読み返してみながら若干の感慨を禁じ得ない。

            一九三九年五月
                          東京に於て  三  木   清