外来思想の今日
正規の教育を受けた者と独学した者との間に相違があることは、普通の人間の場合には、たいてい認められることである。独学者においては、学問上の常識が欠けてゐるとか、その知識が有機的でないとか、その学問にゆとりがないとか、などと屡々云はれてゐる。このやうな相違は、独学者の多くが速修者であること、また彼が学校といふやうな学問的伝統的雰囲気を知らないことに基いてゐる。
明治維新以後の日本の社会的発展は実に目覚しいものであつた。この発展は西洋の学問の輸入によつて為されたのであるが、その発展が急速であつただけ、日本は西洋の学問を絶えず速修することを余儀なくされてきた。ところがこのやうな必要から、日本の学問はいつしか速修者の学風とも云ふべきものを作り出したのである。
或る思想について、その伝統、一般的背景、歴史的関聯を度外視して、ただその結論だけを覚え込まうとするのは、速修者の学風の特徴である。一定の思想が作られ、また動いてゐる具体的な過程には興味を持たないで、ただその結論らしいものを捉へて議論したがるのも、速修者の学風の特徴である。かうしてただ結論だけが関心されるところから自然に形式主義が生れる。我が国に蔓延してゐる形式主義は日本が従来西洋の学問を速修しなければならなかつたといふ事情と関係がある。そしてかかる思想上の形式主義は形式化された儒教道徳と結び附いて助長されたのである。
外来思想の排斥が頻りに叫ばれてゐるが、さういふ西洋思想の弊害は、よく考へると、西洋思想そのものの有する制限を正確に指摘したものでなく、却つてそれは我が国における速修者の学風の弊害に基くものが多いと思ふ。そして実は、外来思想の排斥が盛んになつた今日、我が日本の学問はそのやうな速修者の弊を克服し得る段階にまで生長発展してきてゐるのである。特に伝統や背景を必要とする文化科学哲学等に関しては、西洋思想のほんとのものは一般にはこれからやつと理解され消化され得る地盤が出来たのであつて、もちろん排斥など云ふべき場合ではない。ただ今日必要なことは、速修者の学風、就中その形式主義を矯正することである。
道元は日本最大の思想家の一人であつた。この道元は支那崇拝を露骨に述べてゐるが、そのことは彼が支邦人も及ばない独特の思想を生むことを妨げなかつた。日本精神といはゆる日本主義とは同じでない。日本精神は主義以前の事実である。それは過去に固定したものでなく、発展してゆくものであり、それを発展の方向において眺めることが大切である。
(三月二十六日)