国民文化の実力



 最近唱道されてゐる選挙粛正が歓迎さるべきものであることは論を俟たない。選挙は国民がめいめい独猫立の判断を有し、それを自由に発表し得る場合に意味がある。ところが選挙粛正運動が企てられてゐる一方、思想統制を強化し、国民を一つの思想色で塗りつぶさうといふやうな運動が行はれてゐることは、少し奇妙である。皆が同じ意見になれば選挙も不要ではないか。
 官僚の手で行はれる選挙粛正運動がいつのまにかこのやうな思想統制運動と結び附き、結局選挙なぞ無意味にする政治的傾向を助長することになりはしないかを、政党は注視すべきであらう。
 統一は力であるといふ意味で、統制も時には必要である。しかしまた統一の力は統一されるものの力に依存する。日本は国家的統一においてはつねに誇るに足るものを持つてゐた。改善を要するのは寧ろ、国民が政府に頼り過ぎる結果、個人的完成を有せず、独立心に乏しいといふことであつた。自由主義は個人主義として非難されるけれども、それが独立の個人としての完成をもたらすものである限り、我が国の如きにおいては、まだまだ効力もあるのである。
 哲学者は多様の統一と云ふ。ただ一色のものの集まりは却つて力が弱く、統一とも云へないであらう。「その平和が恰も家畜の如く単に奉仕することをのみ学ぶやうに導かれる国民の無気力に依存する国家は、国家といふよりも荒野と呼ばるべきである」とスピノザは云つた。
 外的強制による統一は国民を無気力ならしめ易い。この頃の思想統制にしてもそのやうな結果になりつつあるのではなからうか。統制強化のために知的文化的生産が不安にされ、不活溌になつてゐはしないか。しかも現代日本文化の特殊な事情において、我々自身の文化的生産が衰へる場合には、外国の文学や思想の輸入が或る意味では寧ろ盛んになるといふことが考へられる。
 翻訳書の洪水は今に始まらないが、失業インテリゲンチャの唯一の武器が語学であるといふことと伴つて、自分の自由を奪はれた思想を外国人の口を藉りて表現するために、我が国自身の文化的生産の萎縮のために満たされない要求を外国のもので満たすために、ますますそれが激しくなるといふこともある。そこに現代日本文化のおかれてゐる特殊な事情がある。
 かくて思想統制は却つて外国思想輸入を助長するといふ日本主義者の欲するのとは反対の結果になる。もつと思想の自由を認めることによつて、自国民の文化的生産活動を活溌ならしめることが、やがて我が国独自の強力な文化を築き上げ、外来思想から独立し得る道ともなるのである。
 統制のみが国民文化の実力を作るものでないことを理解すべきである。

   (七月九日)