世代の速度
この二三年来我が国で流行してゐるものは、ドストイェフスキーにせよ、ニーチェにせよ、ベルグソンにせよ、以前我が国において一度も二度も流行したことのあるものである。さう云へば、日本文化の内部における西洋的なものもすでに歴史を持ち得るまでになつたことがわかる。やがて日本におけるドストイェフスキー研究の歴史、ニーチェ解釈の歴史などといふ論文が書かれるやうになるであらう。
しかし他方特徴的なことは、それらの文学者や哲学者の場合にしても、以前の研究と今日のそれとの間に殆ど何等連続的な方面がないといふことである。解釈の相違はもとより、研究する者も、深く関心する者も、さほど長くもない時期の間に違つた世代へ移つてしまつてゐる。我々は世代の推移のあまりに速かなるに驚かされるのである。
外国ではかなり年をとつてから初めて世に出る作家も少くないが、日本の新進作家と云はれる人々はいづれも若か過ぎる。これは作家に限らず、評論家にしても学者にしても同じである。そしてそのやうなことにも理由があるのであつて、世代の推移の速度を語るものである。
人間の一世代即ち親子の間に規則的に観察される年齢の差異は平均三十幾年かであり、三世代がほぼ一世紀にあたるとされる。しかしこれは生物学的意味における世代のことであつて、歴史的意味における世代の形成は、人間が特にその感受性の豊かな青年時代に経験する社会的及び文化的諸事件の影響によつて決定される。従つて社会上及び文化上の変化が甚だ急速に行はれた現代日本の如き場合には、世代の推移も速いわけである。そのうへ我が国ではこれまで正直に見て、青年はつねにより多く西洋的なものに親しむに反して、年をとると次第に東洋的なものを好むやうになるといふ一般的傾向があるために、世代の推移も特殊な調子を持つてゐる。
世代の移りゆく速度は大きい。しかもこの国において特に老人が幅をきかしてゐるのである。現代日本の政治が青年の心に訴へることのないのも当然であらう。老人と青年とが互ひに理解できない言葉を語つてゐることが如何に多いか。しかもこの国において格別に思想問題がやかましいのである。そこにさまざまの悲喜劇が見られる。そしてまた世代の速度を考へるとき、いつまでも若くて新しいものに良き理解を持つ少数のすぐれた年長者は、この国においては特別の尊敬に値する理由がある。
世代の速度を考慮しなければならぬ。それは就中文化や思想の問題において我々が如何にあり、また何を為すべきかについて種々の示唆を与へるであらう。
(七月二日)