世界の現実
人類の歴史は「世界」が生成しそして拡大してゆく歴史である。むかし世界征服を企てたアレクサンドロス大王が夢に描いた世界も、今の小学生が知つてゐる世界に比してなほ甚だ小なるものであらう。そのやうに世界は拡大した。或ひは同じことだが、そのやうに世界は縮小された。
嘗て世界はひとつの「理念」に過ぎなかつた。しかるに今では世界は一個の「現実」である。このことを無視する限り、国民主義も抽象的な、非現実的な理論に過ぎない。
現代は国民主義の時代だと云はれる。なるほど国民主義は今日顕著な世界的風潮である。といふことはまた、国民主義は、一国だけが国民主義的であり得るものでなく、一国の国民主義は必然に他国の国民主義を誘致し、激化させるといふことを意味する。このやうに国民主義が「世界的」になつてゐる一方、かかる国民主義を限界する「世界」が一個の現実として存在し且つ発展しつつあるといふことも動かし難いことである。国民主義にとつての脅威は、今日恐らく、他の国民乃至国家であるよりも世界である。そこに今日の国民主義の焦躁がある。
国家は個人の総和以上のものであると云はれるやうに、世界は国家間の関係以上のものである。従つて世界的といふことは単に国際的といふことではない。旧い自由主義は国家を個人間の関係と考へたやうに、世界主義を単なる国際主義と考へた。しかし世界が現実的になるといふことは世界が一全体として成立するといふことである。全体は部分の和以上のものであり、部分間の関係に尽きるものでもない。全体主義は国家主義の論理であると云はれる。しかるに世界が現実的となるに従つて、全体主義は単なる国家主義であることができなくなり、そして同時に全体主義の哲学そのものが破産せざるを得ない。
国民的自覚が喚起されることは、それ自身としては喜ぶべきことである。けれどもそのために世界が今日においてはもはや単なる理念ではないといふことを忘れてはならぬ。「世界史」は次第に現実化してゆく。
『世界に於ける希臘文明の潮流』『概観世界史潮』などの好著を世に示された坂口昂先生が逝かれてから既に数年になる。先生の没後、我が国において先生の如き世界史的眼光を有する歴史家が殆ど見られないことは寂蓼の感に堪へない。
(六月二十五日)