詩のない時代



 日本は詩人国だと云つて誇りにされてゐる。なるほど和歌や俳句を作る者はどこにもゐる。しかし以前「新体詩」と云はれた種類のもの、和歌や俳句から区別される固有な意味での詩は、次第に衰微してしまつた。今日の日本は詩のない時代である。
 外国では詩と文学、詩人と文学者といふ語はしばしば同じ意味に用ひられ、文学の中で詩は高い位置を占めてゐる。我が国の現代文学は多分に外国文学の影響のもとにあるが、詩の位置、詩人と作家との関係に至つては外国の如くでない。そして詩がないといふことが今日の日本の文学全般の、いな、単に文学のみでなく文化全体の欠陥を極めてよく象徴してゐるのではないかと思ふ。明治時代にはもつと詩があつたのではないか。いはゆる「文藝復興」も詩の復興から始まらねばならぬと云へるであらう。
 現代の青年が和歌や俳句にどれだけの関心を有するか、問題である。恐らく彼等は今日の四十代の人が持つたやうな感興をそれに対して持つてゐないであらう。そのやうな青年も年を経るに従つて次第に和歌や俳句に興味を持ち、自分でも作るやうになると云はれるかも知れない。そのやうになることには確かに我々日本人の持つ好さがある。しかし同時にそこに我々の精神的発展の制限があるといふことも考へねばならぬ。そこに我々の間からスケールの大きな文学者や思想家の出てこないひとつの理由が隠されてゐるのでもある。
 もちろん和歌や俳句の世界においてもいろいろと革新の努力がなされてゐる。それは喜ぶべきことだ。けれどもそれだけでは不十分であり、新しい詩の興ることが要望される。我が国の現代語は詩に不適当であるといふ意見(萩原朔太郎氏)もほんとであらうが、しかし他方詩が盛んになることこそ我々の言葉が浄化されるために最も必要なことであると考へられるのである。和歌や俳句の革新にしても新しい詩が勃興することによつて容易に実現されるであらう。一部の人々の間で唱へられる浪漫主義の運動なども詩の復興運動として具体的になれば遙かに有意義であらう。
 新しい詩が興るといふことは何よりも若い世代が自己自身の感情を率直に表現し、自己自身の意欲を大胆に確立することである。今の若い世代に詩がないといふことは日本の社会と文化とにとつて大きな不幸である。彼等をして詩を失はしめたものは誰だ!詩のない今日の社会において「詩吟時代」(正宗白鳥氏)が現出した。詩吟と浪花節とが返り咲き、そしてあの感傷的な、頽廃的な小唄が氾濫してゐる。かくて真の詩はいよいよ失はれてゆく。これが現代の文化政策であらうか。

(六月十八日)