生活条件と時間



 昨日は時の記念日であつた。最近毎年、時の記念日の宣伝が行はれてゐるが、その宣伝の目的は主として時間の正確とか時間の履行とかの奨励にあるやうである。
 集会、訪問、出勤、その他いかなる場合にも、時間が正確に守られることは大切であり、善いことである。その意味で時の記念日はまことに結構な企てである。しかしそれと共に我々は時間が決して抽象的なものでないことを考へなければならない。
 一般的に云つて、都会人は田舎者よりも時間の観念が強いであらう。ちやうど都会人の会話が速く、田舎者の談話が緩やかであるやうに、そこに生活の速度の差異があるからだ。また労働者は農民よりも時間の観念が強く、会社の従業員は個人商店の使用人よりも時間の観念が強いであらう。このやうに生活条件の異るに応じて、人々の時間の観念もおのづから異つてゐるのがつねである。そして時間の観念の強い者はあらゆる場合に時間を詩sするといふのが普通である。だから西洋人が我々よりも一層時間の観念が強いといふことは、彼等の生活がいはゆる「機械文明」に滲潤されてゐるためだとも云へる。そして我々日本人も、そのやうな機械文明が次第に滲透してくるに応じて、おのづから時間の観念が強くなつてきてゐるのである。これは時の記念日の宣伝などとは独立に進行する社会的発展の事実である。
 具体的な時間は我々の生活時間である。労働者にとつて時間の問題は何よりも労働時間の問題である。時間の慣行などと云つても、抽象的に考へらるべきことではない。そこでまた農村の工業化が拡大することになれば、農村生活者の時間の観念も一層強くなるであらう。或ひはまた都市の商店が、外国において見られるやうに、特殊なものを除いて、一般に夜間は閉鎖するやうになれば、少くとも日曜日は休業するやうにでもなれば、都市居住者の時間の観念も更に強くなるに相違ない。
 近年各個人の家の時計の時間がたいへん正確になつた。これはラヂオの普及がもたらした最大の効果のひとつである。時間の詩sの方面において公私の生活の改善さるべき点はなほ多く、時の記念日がその改善を目差してゐるのは有意義なことである。しかしこのやうな機会に時間の問題が生活時間の問題として具体的に人々の活溌な関心の対象とならなければならぬ。時間の厳守によつて他人の時間を無駄にしないことも大切だが、また他人の時間をやたらに無駄にしないやうにすることが甚だ大切である。


(六月十一日)