英雄崇拝の転倒



 ひとを攻撃するのは、その人を重んじてゐるからである。その人を何等重んじてゐなければ、攻撃の相手にするといふ気にもならないであらう。だから社会的な活動する者にとつて最も恐しいことは、他人から攻撃されることでなく、全然黙殺されるといふことである。攻撃を受けてゐる間は社会的生命があるわけだ。
 今日は名士の受難時代であるといふことを屡々聞かされる。実際、血盟団事件以後、名士の災難に遭つたものは一々記憶できないほどである。現に名士の身辺警戒のために使はれてゐる人の数を調べてみれば、意外に大きな数字が出てくるかも知れない。警視庁の今度の暴力団狩によつてそのやうな警戒をどこまで減じ得るに至つたか疑問であらう。
 名士の受難は、今日我が国において広く見出されるところの転倒された英雄崇拝の一つの現はれにほかならない。社会が少数の英雄たちによつて動かされてゐるかのやうに考へればこそ、名士を襲撃する気にもなるのである。またそのことが何か英雄的行為ででもあるかのやうに考へればこそ、暴力も振はれるのである。すべては逆立ちした英雄崇拝にもとづいてゐる。ファッショ的傾向が盛んになると共に、かくの如く逆立ちした英雄崇拝が種々の形をとつて現はれてゐる。そしてそのことはまた、我が国のファッショのうちに真に崇拝されてゐる英雄が有しないといふことを間接に証明してゐるわけだ。
 警視庁の暴力団狩はまことに結構なことであるが、その一方、政府の近来大いに奨励してゐる精神教育とか国史教育とかいふもののうちに英雄崇拝の気風を助長するものが少くないとすれば、矛盾であると云はねばならぬ。暴力団的行為をなくするためには、歴史を動かしてゐるものが少数の英雄たちでなく大衆であるといふことを徹底的に教へ込むことが何よりも必要なのである。とりわけ今日の我が国の情勢においては、英雄崇拝は逆立ちする危険が甚だ多いことを考へねばならぬ。英雄崇拝が逆立ちすると、真の英雄も作られないのであつて、現代の日本に大人物がないといふことも日本人があまりに英雄崇拝的であり、自由主義的なところがないといふことにも大きな原因がある。
 人間はあらゆる場合に自分を現はすものだ。この頃の外国思想攻撃なども逆立ちした英雄崇拝の一例であり、攻撃者自身が却つて外国思想を極めて重大視してゐるのであつて、これに反し外国の善いところをどしどし取入れて自分を養つてゐる者は外国をそれほど崇拝もしてゐないのである。


(五月二十八日)