瑣末主義の弊
                                   
 官公の諸役所の瑣末主義のために事務が渋滞し、一般市民の蒙る迷惑も少くないといふ非難を聞くことは既に久しい。その改善もなかなか行はれ難いやうであるが、この頃はまた新たな瑣末主義が特に思想や教育に関する方面において見られるやうになつた。
 先日、来客の話に、今度仏英和女学校が改称されて白百合女学校とかになつたといふ。仏英和といへば、東京でもかなり評判の好い女学校と聞いてゐたが、立派な伝統のある名称が変更されるに至つた理由は、仏英和と云へば、日本がフランスやイギリスの下に立つてゐることになるから善くないといふ非難があつたからださうである。まるで言葉の遊戯だ。それが何処で真面目に考へられたか私は審かにしないが、ともかく改称が行はれた点から見ると、その非難は有力な筋から出たものであるに相違なからう。私はこの学校と何の関係もない、ただ現今の瑣末主義の一例として挙げるまでである。
 国粋主義が盛んになると共に、この種の瑣末主義が流行するやうになつた。ほんとの日本精神はもつと闊達澄明なものであると思ふが、この頃ではさうでなく、日本主義は瑣末主義に陥りつつある。外国文化の移植は外国崇拝にもとづくと云はれるけれども、それは、もし欲するならば、文化上の外国侵略であると考へてもよいわけだ。「東方からの光」と云へばもとキリスト教のことを意味したが、その「東方からの光」は西洋を侵略した。或ひは寧ろ西洋によつて侵略されて、その文化の血肉となつた。同じやうに日本はインドの仏教を侵略してきた。ところが近年ではその仏教が学術的研究の方面では多くヨーロッパに侵略され、更にそのヨーロッパの学術的研究を日本が侵略してゐるといふ有様である。
 外国への伸張の意図が猛烈である場合、政治上の場合にも見られる如く、文化上の場合にも国内のことが疎略にされるといふことは起りがちであつて、この点を警戒すべきであると云ふのは正しいことである。しかし同様の警告は、特に政治上の場合についても、絶えず発せられねばならぬことなのである。
 瑣末主義が形式主義であることは云ふまでもない。しかるに現今流行の瑣末主義の一因は、日本主義が外国流の独裁主義にかぶれて、独裁者気取の風を作りつつあるところに有すると云へなくはない。権力を欲する独裁者気取の者が自己の狭隘な権力を示すには瑣末主義が甚だふさはしいのである。
 教育及び文化のことは特にいはゆる百年の大計を樹立することが大切である。しかるにこの方面における瑣末主義の流行が今日注目すべき一特徴となつてゐるのである。 


(五月二十一日)