仏教復興其後

 仏教復興が唱へられてから既に時を経たが、実際に併敦がどれほど復興したか、疑問である。近年最も盛んになつたものと云へば、仏教でなく寧ろいはゆる類似宗教を挙げねばならぬ。人或ひはこれを呼んで「新興宗教」と云ふ。そのやうに類似宗教の勢力の伸張にはめざましいものがあり、かやうな現象のうちには社会学的考察を要する種々の問題が含まれてゐる。
 むろん或る意味では仏教の勢力は次第に強化してきた。仏教が思想善導の道具として用ひられることは多くなり、仏教家の側でもこれを大いに徳とするといふ傾向である。先日、地方長官会議の席上で松田文相は、「一般大衆の思想を啓発し、国民精神の作興を図るには宗教団体及び宗教家の自覚促す」ことが必要であると述べてゐるが、このやうな訓示が地方長官の前でなされるといふことは、すでに宗教家にその用意のあることを示してゐるとも云へる。また仏教家の間でファッショ的政治団体に類する組織も作られたさうである。政治に結び附いた勢力としては仏教も確かに強化してきた。
 けれども、仏教家が修身教科書にあるやうな国民道徳を説いて廻つたところで、仏教は復興するであらうか。もしそこに何物かの復興があるとしても、それは断じて仏教のことでなく、或る他のもののことである。仏教家が国民道徳の説教者になるとき、彼等は自分自身で仏教を無用ならしめてゐるのである。もしも仏教が道徳論と異らないならば、仏教は無用であらう。またもし今日仏教家が国民道徳を説いて廻る内部の必要があるとすれば、それは教団自体が「株式会社」などと全然同様のものとなつてゐる証拠でなければならぬ。
 今日の社会において真の宗教家として生きることは極めて困難なことであらうと思ふ。しかるに我々は教団内部の醜い紛争については屡々聞かされるに反して、そのやうな精神的困難、これに対する苦悩、破綻については殆ど何事も聞かないのである。現代において真の仏教家として生きることが如何に困難であるかが正直に告白されるだけでも、仏教に対する人々の関心をもつと喚び超し得るに相違ない。
 明治以来仏教はあまりに道徳論化し、宗教としての特質を失つてきた。今日仏教が復興するとすれば、それはそのやうな道徳論化から自己の純粋性へ還ることに始まらなければならぬ。それは恐らく現実の社会においては甚だ不利な、危険な結果にならう。併しもし現実の政治的勢力と結び附いて現世の繁栄を計ることがすべての問題であるならば、仏教とは名のみのものである。
                                        (五月十四日)