原因と結果
最近非常な歓迎を受けたのは小原法相の似而非愛国主義者に対する取締についての演説である。私も法相の言明に大いに敬意を表するものであるが、同時にそのやうな似而非者流の輩出するに至つた原因を考へてみることが必要であらうと思ふ。
いつたい愛国心を持つてをらぬ人間は先づないと云つてもよいので、もし自分には愛国心がないと云ふ者があれば、虚勢を張つてゐるに過ぎぬと考へて間違ひないほどである。自分の国のことをいろいろ批評する者も、根本において自分の国を愛してをればこそ批評するのであつて、もし何の愛もなければ批評する興味すら起らないであらう。しかるに自分の国のことを批評する者は愛国者でないかの如く非難されるとすれば、それは言論の自由が認めらるべきものでないといふ前提の下においてでなければならぬ。言ひ換へると、似而非愛国主義者の出たために言論が圧迫されたといふのみでなく、寧ろ言論の圧迫があつたために似而非愛国主義者も生じ得たのである。言論にもつと自由が認められてゐたならば、そのやうな似而非者流の輩出する筈もなかつたであらう。
また似而非者流の出てくるといふことは、偏狭な道徳主義乃至精神主義の弊害の現はれでもある。金持は自分は金を持つてゐるとは滅多に云はぬものだが、狭隘な精神主義の有する場合、ひとは誰でもが持つてゐるものを自分だけが持つてゐるかの如く称したがるものである。そしてそのやうに自称することが更に政治的意義を有し得る場合、なるべく早く名乗る者が勝つといふのが政界の常道であるので、似而非者流も生じ易い。似而非者流をなくするには偏狭な道徳主義乃至精神主義に陥らないやうに、国民に科学的な或ひは哲学的な見方を教へることが必要である。客観的真理と主観的信念とが必ずしもつねに一致するものでない限り、主観的に純真でありさへすれば足りるとは云ひ得ないのである。
道徳主義者において屡々見られる欠点は、猜疑心が強いことである。これは彼等のいふ道徳が歴史的現実から離れて主観的なものとなつてゐる証拠である。精神教育を盛んにするのも結構であるが、愛国心の如き事柄について国民が互ひに猜疑するといふやうな結果に陥らぬ、偏狭な主観的なものでないことに留意しなければならぬ。
論語に「三人行必有我師焉」といふ句がある。どんな人の行ひでも、自分の手本とならぬものはないといふ意味である。それのみでない、どんな人も他の師であるかのやうに振舞ひたがるといふのが人間普通の心理である。言ひ換へると、人間はとかく説教したがるものだ。愛国主義者もその例だが、かかる人情を抑制することがまた人間にとつて大きな修養である。尤も説教心が人間に具つてゐるのは、各人いづれも何かすぐれたものを持つてゐる兆しであるとも見られ得る。他人に説教するのもよからう、ただ他人の説教も大いに聴くことを忘れてはならぬ。
(五月七日)