郊外風景

 誰でも云ふことだが、大震災以後東京は郊外の発達が著しく、そのために以前場末であつた新宿、渋谷等が繁昌し、ほんとの中央、麹町辺は却つて寂れる傾向がある。次第に郊外へはびこり、そこに特殊な賑やかさをもつ郊外風景或ひは郊外文化を作つてゐるが、中心地は弱つてゆくやうに見える。
 これは家屋を始め、我々の種々の生活様式と関係があることはもちろんであるが、併しかうやたらに外にばかり拡がつては、不利不便も色々生じてくる。交通政策にもつと思慮を費すならば、中央の繁栄も回復し、そのことはまた郊外の健全な発達のためにも必要であらう。
 私は郊外居住者の一人として、かかる郊外風景を見ながら、考へる、日本の現在の文化はこの東京の状態がよく象徴してゐはしないかと。文化上の大地震は関東大震災よりずつと古く、明治の初めに溯られる。この大地震以後日本の文化は新しいものを追うて外へ拡がり、ここに特殊な「郊外文化」を現出したが、その中心は衰弱してゐないであらうか。丁度大樹の枝は繁茂してゐるが、伐り倒してみると髄が腐りかけてゐたり、中がうつろであつたりするのと同じやうに。
 ジュベールは書いてゐる、「毎年我々には樹木においてのやうに節が出来る、何か智慧の枝が伸び、或ひはうらがれ、また枯死する」。青年には青年の智慧の枝が出てゐる。中年になると新しい節が出来、そこから中年の智慧の枝が出るが、そのために前の枝は日蔭になつてうらがれる。それぞれの年齢には、他の年齢のもたぬ、或ひは他の年齢になるとうらがれてしまふ智慧がある。一国民の文化にも同様に年齢があり、新しい節から枝が出ると前の枝が枯死するのは自然であるが、しかし樹心がうつろになつてしまつては、新しい智慧の枝も茂り得ないであらう。
 現在日本の文化が中心の垂迹した都会の「郊外文化」の如き有様であるには種々の理由がある。外国文化の主に新しいところが取入れられて、その根柢をなすギリシア文化やキリスト教についての根本的理解が欠けてゐることも一つの理由である。西洋の文化には、神の問題、意志自由の問題の如き中心問題がつねに存在して、哲学者も文学者もこれと格闘することによつて自分の思想を発展させ、深化させてゐる。然るに今日の日本の文化にはこのやうに決定的な中心問題がはつきり有しない。実はかかる中心問題を明隙に設定することが今日我々の任務である。尤も我々に無意識的にせよ執拗につきまとつてゐる東洋的な「自然」の如き問題もあるのであつて、これと新たに格闘するなど、今日の文化の中心問題である。
 いづれにせよ、郊外と中央とを活溌に結び附ける文化上の交通政策は思想の自由である。特に日本の文化に対する批評の自由であつて、さうでなければ現に見られる如く徒らに末梢的なことにとらはれ、せいぜい「和魂洋才」といふぐらゐが落ちであらう。

    (四月三十日)