標語の力

 標語がどのやうなカを有するかは、今日誰でも知つてゐる。靴屋も、洋服屋も、理髪屋も、みな何か新しい標語を掲げて人の心を引かうと努力してゐる世の中だ。うまい標語が掲げてあると、その言葉の力で、ついその方へ引かれてゆくといふのが我々の心理である。とりわけ政治は多くの点でこのやうな人間心理を利用してゐる。
 人間は政治的動物と定義され、また言葉を有する動物と定義される。かくの如き人間の特徴を最も鋭く現はしてゐるものは標語であらう。政治的動物は標語を有する動物である。
 標語は政治的な言葉である。といふことは、それはつねに或る意図を含んだ政策的な言葉であり、その意図を正確に観て取ることが大切だといふことである。言葉は或る魔術的なものを有するが、言葉の魔術性は標語において発揮される。といふことは、標語の魅力に盲目的に従ふのは屡々甚だ危険だといふことである。
 例へば、西洋文明は物質文明であるといふ言葉は、標語的に繰返されてゐる。なるほど科学は西洋で発達したものである。しかし科学文明と物質文明とは必ずしも同一でない。西洋文明を科学文明と云はないで物質文明と云ふところにこの標語の魔術性がある。科学の発達には大なる精神的力が要求されるのみでなく、そのほか西洋にもすぐれた精神的文化が存在する。もし西洋文明を物質文明と解するならば、それは却つて従来日本が西洋文化のうちただその科学文明の輸入にのみ力を注いできたといふことを現はしてゐる。断ち物質的であつたのは却つてこちらの態度である。明治以来の政府は、自然科学の方面は奨励したが、精神的文化の発達のためには殆ど何等積極的な努力をなさなかつた。これでは綱紀粛正の標語を掲げた内閣がみづから綱紀問題で倒れるのと同じやうな結果にならぬとも限らない。
 非常時といふ標語が掲げられてから既に久しく、人心の倦怠を伝へられてゐる。しかし我々の必要とするのはただ別の標語ではない。すべてが政治化する今日のやうな時代はまた既に標語過剰の時代である。学問上の問題ですらもが単なる標語によつて置換へられ、判断されるといふ状態である。標語に引かれて国民が分析と批判の力をなくすることの危険であるのは云ふまでもなく、またあまりに多くの標語は、あまりに長く続く雄弁と同様、却つて我々を倦怠せしめ、無関心ならしめるものである。もとより政治と実践は標語を必要とする。過剰な標語を一掃して明朗な大衆的魅力を有する標語を掲げることが大切であらう。

       (四月二十三日)