フレッシュマン
到る処、新入学の諸君に出合ふ季節になつた。大挙の新入生を意味するフレッシュマンといふ語は我が学生諸君の間でも日常化してゐる。さういふフレッシュマンがいま全国各地方から東京へ集まつてきて、この都合に新鮮な気分を漂はせてゐる。
この光景に接しつつ、私は古代ギリシアのアテナイを想見する。そこには諸地方から、イタリアから、アフリカから、小アジアから、あらゆる身分の人間が知識を求めて集まつてきた。今日の諸君には奇異に思はれるにしても、プラトンやツキディデスの頃にはどこにも本屋がなかつたことを考へ給へ。書物の売買はアウグスナチス時代に至るまで存在しない。アテナイによつて供給された教育は、学生が実地に視るもの、聴くもの、心で捉へるものであつて、読むものではなかつた。もちろん近世の大学の如き組織は存しなかつた。いな実に、アテナイそのものが大学であつたのである。
ユニヴァーシティといふ語の示すやうに、大学のもとの意味は普遍的な知識の学校といふことである。このことはあらゆる地方から出てきた人々の一つの地点における集合を意味してゐる。あらゆる地方から来るのでなければ、どうして知識のあらゆる分科の教師と学生とが見出されるか。一つの地点に集まるのでなければ、どうして学校といふものがあるか。このやうな、言葉の根本的な意味において、古代のアテナイ、近代のパリやロンドンは、これらの都市そのものが大学である。
大学の意味が限られた建物に有しないとすれば、今日の東京は、そのものが大学である。ここでは新聞、雑誌、書肆、図書館、展覧会、講演会、様々のものが事実において大学の機能を、即ち普遍的な知識の学校の機能を営んでゐる。知識を求める者、そして知識を職業とする者が全国からここに集まつてゐる。
印刷術の発達は大学の意義を失はせると云ふ者がある。だがさうではない。多数の人間が集合することによつて作られる知的雰囲気の中に入り、思想を交換するといふことは有益である。話される言葉は書かれた書物とは違つた多くのものを与へる。人間的な接触、談話の価値は極めて大きい。しかし今日の大学の実際では、教師と学生との接触、談話は稀なこととなり、書物の代り得ない部分は少くなつてゐる。それらのものは寧ろ大学以外で与へられる。今日の大学の不幸は、東京の如き都市では社会の知的水準が甚だ高まり、知的職業が拡大し、多様化し、知識人が集中し、言葉の根本的な意味において大学の機能を営みつつあるものが事実上大学の外にあるといふことである。
このやうな事実は、教育者諸氏はもとより、学生諸君も反省すべき多くの問題を含んでゐる。
(四月十六日)