新語・新イズム解説  10.7.28 読売新聞

     普遍主義(全体主義)

 全体主義といふ語はこの頃一般の新聞雑誌でも度々見られるやうになつたが、それと同意義の普遍主義といふ語は専門家以外の間ではあまり使はれてゐない。全体主義の代表的思想家オトマール・シュパンは自己の立場を個人主義に対して普遍主義と称してゐる。特殊と普遍とは論理上相対する概念であつて、個人は特殊であり、これに対して国家の如きは普遍と見られる。従つて個人主義対普遍主義の区別が成り立つわけである。普遍に抽象的普遍と具体的普遍とが区別されてゐる。抽象的普遍は形式論理学でいふやうな普遍であつて、一群の特殊からそれらに共通なものを抽象することによつて作られる。かかる普遍は特殊から抽象されたものとして、その内容は特殊よりも貧弱でなければならぬ。これに反し具体的普遍といふのは「全体」のことであつて、特殊を部分として自己のうちに含む。特殊は全体の欠くべからざる要素であるが、全体は部分の和に過ぎぬものでなく、却つて全体は部分に先んずるといふのが普遍主義の根本命題である。然るに特殊(個人)に対する普遍にも、人類といふが如きものを考へることもできれば、個々の民族乃至国家の如きものを考へることもでき、かかる二種の普遍は秩序を異にするであらう。それらは論理的には類及び種として区別され得る。例へば人類と人種(民族)といふが如くである。種も個(特殊)に対して普遍であるが、類とは区別されねはならぬ。かくて従来の社会的存在の論理が特殊と普遍のいはば二項から成つてゐたに対し、個、種、類の三項を考へ、単なる普遍の論理に対し「種の論理」を他のものとの弁証法的関係において立てようとするのが田辺博士の最近の社会的存在の論理である。


      述語主義

 凡ての判断が主語と述語とから成ることは論理学の説明を俟つまでもなく周知のことである。これを哲学一般の問題に移して、実在を考へるに主語的な考へ方と述語的な考へ方とを区別することができる。アリストテレスは主語となつて述語とならぬものが実在であるとした。例へば「人間」といふが如きものは真の実在でない。人間は、「ソクラテスは人間である」といふが如く、他のものの述語となり得るからである。主語となつて述語とならぬソクラテスといふが如き個物が実在であると考へられた。西田博士は逆に、述語となつて主語とならぬものが実在であると云はれる。個物は個物に対してのみ真に個物である。私は汝に対してのみ真に私である。個物は働く個物としてどこまでも独立のものであつて、他の個物と全く非連続的なものでなけれはならぬ。しかし個物は個物に対し両者の間に関係が存する限り、そこに何か一般的なものがなければならぬ。かかる一般的なものは述語的なものである。然るにもしそれが「有」であるならば、それはまた主語となることができ、かかるものによつては個物と個物との非連続は考へられない。述語となつて主語とならないものは「無」でなけれはならぬ。無の一般者において非連続の連続が考へられるのである。このやうにして述語的論理によつて考へて行くことが西田哲学の根本的な特色である。西田哲学と云へば、すぐに反主知主義とか非合理主義とかと考へられるが、却つて非合理的なものを述語主義の論理によつて論理的に考へて行くことが最も独創的なところである。

      性 格 学

 ハイデッガーやヤスパースなどの「実存哲学」は我が国でもかなり一般化したが、それと種々
の類似点を有する性格学の根本思想はあまり問題にされてゐないやうである。クレッチマー等の精神病学者の性格学は医者の方面では知られてゐるが、表現理論から出発したルードウィヒ・クラーゲスなどの性格学は哲学の学徒によつてもつと研究されてよいものであらう。それは最近流行のニイチェなどとも重要な関係がある。その根本思想はガイスト(精神)とゼーレ(心霊)とを区別し、これまでの精神の哲学、従つてロゴス中心的な哲学に対して、ゼーレを重要視するところにある。ゼーレといふのは身体、従つて自然と融合せるものであるが、これに反し人間における精神の発達は母なる自然に対する叛逆を意味し、人間の滅亡への道であると考へられる。このやうな世界観には同意できないにしても、表現理論が現代哲学の重要な課題であることは種々の方面から認められてをり、表現的なものは凡て性格的であるとすれは、その問題を基礎とする性格学は注自するに足るものを含んでゐる。私のパトス論なども性格学にいふゼーレの思想を純化しようとしたものと云つてもよい。