如何に宗教を批判するか   5.2.9 中外日報

 現在の宗教が否定さるべき要素を有することは何人にとつても明白である。眼ある者はこれを見、文字ある者はこれを知らざるを得ない。如何なる宗教肯定論者と雖も現在の宗教の全部をそのまま弁護しようとは思はないであらう。そこでこれらの人々の宗教擁護論は普通に次のやうな形をとつて現はれる。
 第一、宗教の本質とその現象、就中宗教制度とが区別されねばならぬ。そして宗教に於て否定さるべき要素はその現象に関係する。現在に於ける個々の宗教組織、個々の宗教制度のうちにはなるほど変更さるべきもの、革命さるべきものも少くないであらう。しかしそれだからといつて宗教の本質、「純粋な」宗教ともいふべきものは決して否定さるべきでない。我々は宗教の本質に新しい衣を着せさへすればよいのである。このやうな考へ方は更にこれを推し進めることが出来る。かくて第二に、従来宗教の本質と見做されたものの中にも否定さるべき要素は含まれてゐる。我々は宗教の本質を一層「純粋に」せねばならぬ。そしてこの宗教の「純粋な」本質こそは固より今日と雖も否定さるべきではないのである。
 先づ第二の点に関して私は云ふ。宗教の純粋な本質などいふものはただ哲学者の頭の中にだけ存在し得るものだ。もし宗教家にして宗教のかかる純粋な本質を考へてゐる限り彼は宗教家でさへないのである。現実的な宗教はこの意味に於て凡て純粋ならぬ宗教である。「原始的」宗教がつねに一切の偉大なる宗教の底流をなしてゐる。どのやうな高級な宗教も多かれ少なかれこの原始的宗教に権利を認め、多かれ少なかれそれに自己を適応させ、且つその要素を自己の中に取り入れてゐる。ここに「原始的」といふのは、時間的に昔のものであるといふ意味でもなく、また価値的に低いものであるといふ意味でもない。却つてそれは大衆の自然的な宗教的意識を指すのである。原始的宗教の表象として、その感性的、物象的性質、その降伏主義的傾向などが挙げられることが出来る。事物の世界となんらの接触ももたぬ一の絶対的に「精神的な」宗教は単に一個の抽象的な理論としてのみ存在し得る。又一切の人間の有する幸福への願望こそはあらゆる宗教の出発点である。
 同じやうに第一の点に関しても私は云ふことが出来る。宗教の本質とその現象とを二元的に見ることは誤である。歴史のうちに活ける力として存在した如何なる宗教もつねに儀礼や制度や組織をもつてゐる。宗教は固よりこれらのものに尽きはしない。そこには人格の最も内面的な体験がある。しかし最も内面的なものもつねに何等かの仕方で外部に表現される。このことは人間がその存在に於て単に精神的でなく却つて同時に感性的な構造のものであり、いはゆる精神物理的統一体であることによつて必然的にされてゐる。内なるものは外なるものを通して、外なるものは内なるものによつて理解される。もしさうであるならば、宗教の変ることなき本質などいふものは存在しないのであつて、その教理、その制度などの変化してゐる如く、宗教の本質そのものもまた歴史的である。
 このやうにして我々は歴史のうちに活ける宗教を一の全体として問題にしなければならない。この場合我々は一般に次のことを注意しておかう。宗教が今日堕落してゐるとするならば、それは、或る人々の考へる如く、単に宗教そのものの罪でなく、却つて宗教がそのうちにある社会によつてさうさせられてゐるのである。今日の社会の変革なくして今日の宗教の変革もあり得ない。否、ブルジョア社会ほど非宗教的な社会は嘗てなかつた。この社会に於て宗教は最も非宗教的たらざるを得ない。それだから宗教に対して真に関心を有する者はブルジョア社会に敵対せざるを得ないのである。


       二

 階級社会に於ては藝術も、科学も、哲学も凡て階級的である。宗教もまたそれ以外のものであることが出来ない。既に宗教家そのものが階級人であり、自己をつねに階級的利害に結びつける。
我々は宗教が「何」であるかを宗教家が「誰」であるかといふことを通して知ることが出来る。宗教の批判は宗教家の社会的階級性の批判をもつて始められなければならぬ。
 宗教はつねに「人類」の名に於て呼びかける。しかしいはゆる人類なるものは嘗て存在しなかつたのであり、今もなほ存在しないのである。在るものは階級社会である。それ故に人類の名に於て呼びかけられた言葉は、その具体的な内容に於ては、階級的な言葉であつたか、少くとも階級的な意味に受け取られたかである。「富める者の神の国に入るよりは、駱駝の針の孔を通るは却つて易し。」といふ語を無邪気に、大胆に叫び得る者は、貧しき者の味方でなければならなかつた筈である。そこに我々は或る種の階級的憎悪の表現をさへ見出すことが出来るであらう。もとよりなんらかの人が正直に人類のことを考へてゐることは可能である。然しながらそのやうな人の説くところのものも、階級社会の内部に於てはいつでも階級的に利用されるのである。彼はこのことに注意せねばならぬ。
 宗教はつねに真の幸福が物質的なもののうちに有しないと教へる。このことは正しいであらう。けれどもこの教へも階級社会に於ては階級的意味を負はされる。それは貧しき者をその貧に甘んぜしめ、従つて彼等を永久に搾取される位置におくことになる。物質的なものを軽蔑することを説くのは、この社会の現実に於ては、搾取されることを承認するのを勤める意味をもつてゐる。宗教はまたつねに平和について語る。しかるにこのこともまた現在にあつては、階級闘争への参加をやめさせることによつて、貧しき者をして永久に階級的隷属に満足せしめようとすることになつてゐる。
 進んで云へば、宗教は従来一個の矛盾の存在であつた。それは階級なき社会に於て初めて有意味に語られ得る事柄、人類、平和、物質的なものに対する無関心、等々、を階級社会に於て語つてゐたからである。従つて宗教は最も多くの場合、それらの言葉のうちへひそかに階級的意味をひそませてゐたのである。このことは必然的であつた。なぜなら宗教家そのものがまた階級人であつたからである。かくて今日宗教家の多くの者は、働ける者から自分で搾取するか、それとも搾取する階級に寄生するために、ブルジョアジーと結びついてゐるのが普通である。
 それだからといつて私は単純に、絶対的に宗教を否定する者でない。単純な、絶対的な宗教否定は機械的唯物論のことであり実証主義のことである。人間が機械でない限り、宗教の問題は人間の存在そのもののうちに含まれてゐる。この問題は階級なき搾取なき社会の到来と共になくなるやうなものではない。科学の進歩によつてその問題が解消れてしまふと考へることも出来ない。このやうに考へるのは、恰も美とは混沌たる、曖昧なる表象であり、従つて科学の進歩と共に我々の表象が凡て明晰判明になるに応じて藝術は存在し得なくなると考へるのと同じである。このやうな主知主義的な見方に対して私は与することが出来ない。自然及び社会に関する科学のどのやうな進歩によつても満足させられることの出来ぬ宗教的要求は存在する。それは人間の存在そのもののうちに横はつてゐる。我々は宗教の絶対的な否定を説くのでなく、却つてそれの弁証法的な否定を主張するのである。


        三

 ブルジョア社会の特性はその非宗教的性質にある。ここでは本来の宗教的な問題が蔽ひ隠され、埋没させられる。この社会に於てはひとりプロレタリアートのみでなく、却つてブルジョアジーもまた非人間的になつてゐるからである。人間の自己疎外の完成せる社会にあつては宗教は真実に生きることが出来ぬ。このとき宗教が人類を説き、精神について教へるにしても、それは大衆を捉へることが不可能である。むしろそれはブルジョアジーのために、しかも宗教的な目的のためにでなく階級的に利用されるまでのことである。それだから宗教は自己をこの場合みづから進んで否定すべきである。
 宗教は人類に拘泥することをやめて、プロレタリアートに階級的に結合せねばならぬ。それはプロレタリアートに結合するために、精神を説くことを放棄してこの階級の物質的利益を主張せねばならぬ。宗教は平和を勤めることを断念して、階級闘争の列に加はらなければならぬ。かく自己を否定することこそ自己肯定への道である。蓋し宗教が自己を結合せしめるところのプロレタリアートこそは全人類の解放といふ歴史的使命を担ふ階級である。この階級は人間を自己の生産物たる物質への隷属から自由にする階級である。かくて人類の解放の後に宗教はもはや矛盾なき存在として教展し得る可能性を獲得するに到るであらう。
 今や宗教は自己の弁証法的性質を真実に理解すべきである。宗教は過去の偉大なる時期に於てこのことをよく理解して来た。イスラエルの預言者はその神がイスラエルを救はんがために却つて敵をしてイスラエルに勝たしめるのであると説いた。キリストは神が人間として十字架の辱しめを受けることによつてその愛を示すと教へる。親鸞の如きも「善人なほ往生す、況んや悪人をや」と教へた。宗教的真理の本質は弁証法的なものであると云はれねばならぬ。
 しかるに宗教が弁証法的なものであるといふことは、それが一の全体的な、具体的なものであることを現はす。全体とは部分の和ではない。従つて現在の宗教を分解して肯定さるべき要素と否定さるべき要素とを取り出し、後者を除き去ることによつて宗教を弁護しようとする試みは無駄である。宗教には善い方面もあり悪い方面もあるといつて、折衷主義的な議論を持ち出す者があるとすれば、彼は宗教を全く無力にする者であらう。歴史に於て嘗て折衷主義が現実的な力としてはたらいたことはない。現在に於て否定さるべきものは単に個々の宗教組織や宗教制度のみではない。その観念論や精神主義や彼岸主義がまた同時に否定されねばならぬ。或ひはまた批判さるべきものは単に数理でなくして、却つてまた宗教家である。しかるに宗教家と雖も社会に於ける存在である。それ故に社会の批判が宗教の批判と結びつかねばならぬ。
 宗教家にとつて今日の社会を科学的に認識することは絶対的に必要である。さうでないならば、彼は自己の欲すると欲せざるとに拘らず、反動的な役割を演じなければならぬ。