ヒューマニズムの現代的意義


      一

 現代におけるヒューマニズムの根本問題は人間再生の問題である。そのことに就いては私はこれまで屡々繰返して述べてきた。新しい社会が作られるためには新しい人間が生れねばならず、新しい人間が生れるためには新しい社会が作られねばならぬ。このことは何等遠い将来の問題ではない。人間の再生は今日において、我々自身にとつて根源的な要求である。
 かやうにヒューマニズムの問題を人間再生の要求乃至課題のうちに捉へるといふことは決して肆意的なことではない。ヒューマニズムといへば先づ思ひ起されるルネサンスにしても、その「ルネサンス」といふのは何よりも人間の再生を意味したのである。古代的文化の復興といふこともこの人間再生の根源的な要求の見地から考へられたことであつた。中世社会の崩壊・近代社会の成立期に当るルネサンス時代におけると同様の課題が現代の歴史的状況において新たに課せられてゐる。今日ヒューマニストといはれる人は、ジードにせよ、ゴーリキイにせよ、或ひはニーチェの如きにせよ、凡てこのやうな人間再生の問題と真剣に取組んだ人である。
 人間再生の要求乃至課題は無制約的である。それは謂はば絶対的な歴史的命令であつて、これを無制約的に受取る者がヒューマニストである。今日ヒューマニズムといふ語は人々によつて甚だ多義に用ゐられてゐるが、私は現代のヒューマニズムにとつて最も根柢的な且つ規準的な意味はこの人間再生の要求の無制約的な承認に存すると考へる。もとより種々の歴史的附加物を有するヒューマニズムの思想的内容に種々の制限を加へた上でこれを承認しようとする多くの人々の態度はそれ自体としては正常である。併しもしそのことによつて人間再生の根源的な要求そのものを遺失し、隠蔽し乃至制限してゐるのであれば、それはヒューマニズムと相容れないことになる。
 ヒューマニズムの実体がこのやうに人間再生の問題のうちに存するとすれば、それは差当り理論や思想以前のものであると云ふことができるであらう。実際、ヒューマニズムは理論、思想、文化以前のヒューマニティといふものを重要視する。文化も人間再生の問題の見地から、これとの関聯において捉へられなければならぬ。この点ヒューマニズムは単なる文化主義ではない。併しそれは文化以前のヒューマニティの根源的なものを重んずると云つても、単なる生命主義の如きものであつてはならぬ。却つてそれは理論、思想、文化がヒューマニティにとつて欠くべからざる重要な要素であると考へる。非文化的な野蛮に対してヒューマニズムは単に文化のためにのみでなく、真にヒューマニティのために戦はねばならぬ。かくてヒューマニズムは特に今日のファッシズム的野蛮に対立せざるを得ないであらう。
 けれどもヒューマニズムはいはゆる政治主義をそのまま認めることができぬ。もちろんヒューマニズムはヒューマニティの立場から文化を見るのであつて文化至上主義でないのであるから、政治に対する考へ方もこれと同一ではない。併しヒューマニズムは、例へば文学者は何よりも文学者として現代の歴史の問題の解決に参加すべきこと、そしてかやうな参加の仕方が決して無力でも無意義でもないことを信ずる。彼の作品において新しい人間性を発見し、新しい人間のタイプを創造するといふことは、彼自身にとつて大きな喜びであるばかりでなく、人類の歴史にとつても深い意義を有する事業である。
 私はヒューマニズムの根柢的な要求について述べた。ヒューマニストはつねにこの基本的な見地を見失ふことなしに今日の個々の具体的な諸問題を処理してゆくことが必要である。

           二

 ヒューマニズムに関聯した問題は今日我が国において到る処に現はれてゐる。それはひとが一見考へるよりも遥かに広汎に亙つてゐる。ここでは先づ最近流行の青年論を取り上げてみよう。
 何故に青年の問題がかくも関心されるのであるか。ひとは彼等において新しい人間のタイブを期待する。然るに青年について論ずる立場にある者は彼等青年のうちに自己自身と根本的に異る新しいものを見出すことができない。よし何等かの新しいものを見出したとしても、それは自己の意欲する新しい人間のタイブでない。しかも新しい人間が期待さるべきであるとしたならば、それは何よりも青年において形作られなければならない。かやうにして青年が問題にされる場合、意識的であるにせよないにせよ、その根柢に動いてゐるのは既に述べた人間再生といふヒューマニズムの要求であると見ることができる。さもなければ多くの青年論は無意味である。
 ところで青年たちは、どれほど多くの青年論が書かれても自分たちには関はりのないことだ、と云ふといはれてゐる。もちろんそれらの青年論は不十分なものであらう。併しながら、彼等のそのやうな言葉のうちには凡そ理論に対する無関心が表明されてゐはしないか。理論は抽象的だと云はれる。それはあらゆる理論の本性なのであつて、理論の強さもそこにあるのである。そしてこのやうに抽象的なものに対する情熱こそ、今日ヒューマニズムが強調しようと欲するものである。青年の存在そのものが人生においては抽象的なものでないのであるか。今日のヒューマニストが青年に特別の関心を寄せてゐるとすれば、そのこと自身が既に抽象的なものに対する情熱の現はれである。ヒューマニズムは特に理論への情熱として示されねばならぬ。かのマルクス主義の時代に理論のために身を滅ぼした多数の青年は現在の一般の青年よりも根本において遙かにヒューマニスチックであつたと云ひ得るであらう。
 今日一般の青年の間に次第に深く浸潤してきたのは特殊なリアリズムである。それは凡ての問題を客観的社会的に説明して自己自身の責任において引受けようとはしない悪しき客観主義である。一切の責任は社会に帰せられ、問題を主体的に捉へようとはしない。青年論に対する軽蔑のうちにもそれが含まれてゐはしないであらうか。かやうな客観主義は唯物弁証法が常識化され、従つてまた俗流化されて一般に普及されることによつて甚だしくなつたやうである。悪しき客観主義、悪しきリアリズムに対して今日ヒューマニズムが力説しなければならないのは主体性の昂揚である。主観主義といふ現在最も嫌悪される言葉を我々は引受けることに躊躇しないであらう。
 然るにかやうなリアリズムの傾向が我が国の伝統的なリアリズムと特殊な仕方で抱合してゐることに注意しなければならぬ。一括して東洋的自然主義と呼び得るものはそれ自身の意味におけるリアリズムである。このものと西欧的な客観主義との内密の結合が現在のリアリズムの特殊性を形作つてゐる。例へば東洋的自然主義のリアリズムはその生活態度においても日常性を重んずるが、今日の青年のリアリズムにもかやうな方面が著しく見られるやうである。そこにはいはゆる明哲保身のイデオロギーがおのづから喰ひ入つてゐる。かやうなリアリズムの立場から見るならば、日常的なものに対して世界史的なものとして区別され得るものは確かに抽象的であるであらう。然るにヒューマニズムとはそのやうな抽象的なものに対する情熱にほかならない。
 ファッシズムと共に次第に我々の間に甦つてきた東洋的封建的人間に対する批判のうちにヒューマニズムは現代的意義を見出すであらう。我々はもとより伝統を決して単純に否定するのでなく、伝統はただ創造においてのみ真に活かされ得ると考へるのである。


       三

 ヒューマニズムは今日の諸問題の集合点、統一点をなしてゐる。既に青年論がさうであつたが、近頃の恋愛論、新しいモラルの問題などにしてもヒューマニズムの問題である。それらの問題において感ぜられるのは何よりもマルクス主義とヒューマニズムとの摩擦である、此の摩擦を通じてマルクス主義は従来蔽はれてゐたそのヒューマニズムの要素を明かにすることが必要であらうと思ふ。マルクス主義におけるヒューマニズムの要素は我が国におけるヒューマニズムの伝統の乏しさとも関係して、これまで不当に無視され過ぎてゐたといふことがないであらうか。
 ヒューマニズムは特に今日の文学の諸問題にとつてもその集合点、統一点となつてゐる。もしも我々のやうに明治以後における日本文学の発展を概括的にヒューマニズムへの展開と見、ヒューマニズムと伝統的な東洋的自然主義との接触・摩擦、対立・統一の過程として捉へることができるとしたならば、この過程の飛躍的発展のうちに現代日本文学のあらゆる課題は包括されてゐると考へることができる。最近民族主義伝統主義の擡頭と共に東洋的自然主義とヒューマニズムとの対質を内容とする此の課題は次第に重要性を加へてきてゐる。ここに対質といふのは一方の単純な否定を意味するのではない。併し伝統といふものが現在のファッシズムの歪曲された形態において圧制を行はうとする場合、ヒューマニズムはそれに対して闘争的たらざるを得ないのである。我が国のヒューマニストは我々の民族的なものと称せられるもののうち多くのものが単に封建的なものに過ぎないといふことを摘発すべき任務をもつてゐる。かかる伝統との闘争において、我々はかの西洋におけるルネサンス時代のヒューマニストが古代的文化の復興といふスローガンをもつてゐたのと同じ関係にないであらう。現代のヒューマニズムが一義的な意味を有しないやうに見えるのも、かやうな関係に基いてゐる。我々にとつて差当り必要なことは、明治以後における我が国の文学の発展をヒューマニズムと東洋的自然主義との関聯の見地から再検討し再評価して、そのうちから新しい道を求めてくることであらうと思はれる。
 行動主義乃至行動的ヒューマニズムと称する現文壇の一派の主張には正しいものがあるにしても、それは次のやうな点において不十分であり、欠陥をもつてゐた。即ちそれは先づヒューマニズムを文壇上の一派として主張することに急であつて、遥かに広汎な領域のうちにヒューマニズムの問題を探るといふ努力に乏しく、次にそれは現代のヒューマニズムの最も内面的な要求が何であるかに就いての認識において曖昧であり、第三にそれは我が国においてヒューマニズムが有する意義の特殊性を看過してきたのである。
 ところで伝統の問題は今日また特に教養の問題として現はれてゐる。教養は疑ひもなくヒューマニズムの重要視すべき問題であるが、併し教養といふことも根本的には人間再生の問題の見地から捉へられねばならぬ。ルネサンス時代のヒューマニストにとつては実にさうであつたのである。そして彼等は彼等の古典的教養において中世的封建的伝統に対する国学の武器を見出したのである。このやうな態度はまた今日のヒューマニストが教養の問題に対する態度でなければならない。教養が知識階級の新しい逃避の形式になることを警戒すべきである。
 かくて我々は人間再生といふヒューマニズムの根源的要求において到る処東洋的人間の批判といふ問題に出合ふであらう。我々はそれをニーチェ的課題と呼んでも好い。ニーチェが西欧的キリスト教的人間を批判したやうな熱情をもつて東洋的人間を批判することが要求されてゐる。批判の方法もその帰結も固よりニーチェと同じであり得ないであらう。併し彼と同じヒューマニスチックな精神を欠くことができぬ。ニーチェ的課題の徹底的な遂行は今後の我々の文化の進展にとつて必要な前提である。