ジイドのヒューマニズム

 

 ジイドのソヴェト紀行は我が国においても彼の著作のうち恐らく最も広く読まれてゐるものであらう。この著作の文学的価値は問題でない。純粋に藝術的な見地から云へば、それは彼のコンゴ紀行などに比すべくもないであらう。にも拘らず最も広く読まれたのは、それの取扱つてゐる問題の故に、それが一つの「傾向的」な書物として受取られたためである。しかるに「傾向的」といふことはジイドの最も嫌ひなことである筈だ。実際、この著作を、他の多くのソヴェト批評の書物と同じやうに見るならは、その意味は理解されない。この著作の意味を理解しようとする者は、先づ第一にそれを傾向的な書物と見ることを止めなけれはならない。この著作は依然として「文学的」な作品である。ただこの場合「文学的」といふことは普通に考へられるよりも広い或ひは深い意味に理解しなければならぬ。ジイドのソヴェト紀行及び其修正については我が国においてもすでに多くの批評が現はれてゐるが、たいていそれを他のソヴェトに関する書物と同じやうに矢張り傾向的な書物として取扱つてゐるのではなからうか。
 「私の考察の領域は、心理的な問題についてである。私がここでとりあげることも専ら、いや殆んどその問題にかぎられてゐる。また仮令、私が間接に社会問題にふれることがあるにしても、私の見地はいつも心理的な角度から出ないであらう」とジイドは初めに書いてゐる。「心理的」といふのは分り易く云へば「文学的」といふことである。彼の考察はすべてかやうな心理的な問題の心理的な見地からの考察である。ここで心理的といひ、また文学的といひ換へたのは、つまり「人間的」といふことである。
 「若しもソ聯邦にたいする私の考へが最初から誤つてゐるとするならば、その誤謬を出来るだけ早く認めるのに越したことはない。
 「何故なら、その誤謬がもたらす結果にたいして私は責任を名はねばならぬからである。この場合、自尊心などといふものはてんで問題にならないし、また私はさうした感情を殆んど持合せてゐないのだ。私にとつては、私自身よりも、ソヴェトよりもずつと重大なものがある。それは人類(ユマニテ)であり、その運命であり、その文化である」
 とジイドはまた書いてゐる。
 ジイドのソヴェト批評の立場は根本的にヒューマニズムである。しかもこのヒューマニズムは極めて特殊な意味をもつてゐる。それは何よりも政治主義に対立する。「この『理想的なもの』(ミスティク)から『政治的なもの』(ポリティク)への移行は、不可抗的に一種の『転落』を伴ふものであらうか。何故なら、ここでは最早、理論は問題外のことであつて、人々は実際的な領域におかれてゐるからだ。のみならず人々は人間的なもの、あまりに人間的なものや、また外敵のことも、充分に考慮のうちに入れなければならぬからである。」政治は実際的(プラィテク)なものとして人間的な、あまりに人間的なもの、つまり現実的な、あまりに現実的なものを考慮に入れねはならず、特に外敵に対する関係、例へばソヴェトの場合ドイツに対する関係を考慮しなければならない。政治の含む極端な現実主義的傾向は人間性における「理想的なもの」を抹殺してしまふ。理想的なものといふのは「ミスティク」(神秘的)なものであり、「形而上学的」なものである。即ちジイドのヒューマニズムは人間性のうちに形而上学的なものを認めるのであつて、かやうな形而上学的なものに何等の余地も与へない政治主義に対立せざるを得ないのである。 
 さきごろ我が国においては文学主義と科学主義の問題について論争された。しかし科学主義と文学主義との間には何等問題が存しないと云ふこともできる。科学もジイドの考へる意味においては形而上学的なものと見ることができるからである。文学主義と科学主義との対立が問題になるとすれば、科学主義のもとに実はマルクス主義のことが、しかも科学的であると同時に政治的であるといふやうに考へられたマルクス主義のことが理解される場合である。つまり文学主義と科学主義の問題といはれるものは、実は政治主義をめぐる問題にほかならない。それは更に、単に、文化主義か政治主義かといふやうな問題でなく、ジイドの言葉を用ゐれぼ、人間性のうちに「ミスティクなもの」を認めるかどうかといふ問題である。それは形而上学と人間の形而上学的本質に関する問題である。
 ジイドがミスティクなものといふのはファッシストが神秘的なもの、非合理的なものといふのと同じものではない。ファッシズムはそれ自身また一個の政治主義であり、コムミュニズム以上にすら政治主義であるといふ点においてすでに、ジイドのヒューマニズムとは根本的に相容れないものである。ジイドの批評をソヴェト攻撃のために利用しようとするファッシストはジイドの批評がファッシズムに対して一層大きな程度において当て嵌まるものであるといふことを反省するのを忘れてゐる。ジイドのソヴェト批評は現実のソヴェトの状態に対する批評であるよりも寧ろ原理的にヒューマニズムと政治といふそれ自身一個の形而上学的な問題を提出したものとして注目すべきであり、重要な意味をもつてゐる。
 ジイドは自分の見聞に基いてソヴェトにおける画一主義もしくは順応主義を非難してゐる。またそこには批評の自由がなく、自国を讃美することのみを教へられて外国の事情については無知にさせられてゐるといふことを非難してゐる。「一国の政治から、反対党を除去してしまふことは−或は単に、さうしたものが発生し発言することを妨ぐることすら−極めて由々しきことである。それはテロリズムを誘発
せるからである。若しも、一国の市民が一人残らず同じやうな思想をもつやうになれば、為政者にとつてこれほど好都合なことはなからう。しかし、かうした精神の貧困をまへにして、何人が『文化』を語る信念をもちうるだらうか。」或ることが政治的に見て必要であるかどうか、有用であるかどうかといふが如きことはジイドにとつて問題ではない。寧ろ彼は政治の功利主義そのものに反対するのである。「人間性といふものはそんなに単純なものではない。これは何とも致し方ない事実である。だから、外部から人間を単純化しようとしたり、劃一化または縮小しようと企てることも、いつも醜悪であり破壊的であり、かつ陰惨な喜劇にしかをならないものである。」
 ソヴェト批評においてもジイドは徹頭徹尾モラリストである、あのフランスの伝統的なモラリストである。彼は官僚主義をとりわけ手酷しく攻撃してゐる。しかしそれは一定の政治的立場からの官僚主義攻撃ではない。彼は精神の自由を、個性を擁護する。しかし彼は政治上の自由主義に味方してゐるわけではない。政治的に云へは彼が希望をつないでゐるのは矢張りコムミュニズムであると云へるであらう。しかしジイドのコムミュニズムへの転向といはれるものも、もともと、政治的なものでなく、却つてモラリストとしてのそれであつた。そしてソヴュト旅行の結果はジイドに政治的なものと理想的なものとの乖離をはつきり認識させた。ソヴェトの側から云へば、幻滅の責任は、ジイドの側に、彼の思想にあると云へるであらう。問題は政治主義かヒューマニズムかといふことであり、もつと根本的には、人間性における形而上学的なものを信ずるかどうかといふことである。
 ジイドのヒューマニティに関する観念が抽象的であるのは当然である。それが抽象的であるのは、それが政治的なものでも社会学的なものでもなくて、ミスティクなもの、形而上学的なものであるからである。かやうな抽象的な人類の観念を信ずることができるかどうかといふことが、ジイド的なヒューマニズムにとつては決定的なことである。政治的な乃至社会学的な立場から云つて、彼の人間の観念が抽象的なものであることはジイド自身よく知つてゐる筈だ。人間の抽象的な観念のうちに形而上学的な力を認めるといふことがジイドの立場を政治的、実際主義、功利主義等から区別するものである。ファッシズムにおける民族主義は、かやうな抽象的なものを信じないことにおいて、国際主義的なコムミュズムよりも、ジイドのヒューマニズムから一層遠い筈である。
 尤も、政治的なものそれ自身人間の本性に属すると云ふことができるであらう。人間の形而上学的性質と政治的性質とは人間の二元性であると考へることができる。この二元性は遂に調和することがないであらうか。これは全く重大な問題である。ジイドの批評を更に批評するソヴェト側の人々は、問題を過程的に、それ故に歴史的に、それ故に進歩主義的に見ることによつて、両者の調和を考へようとする。彼等は云ふ、−ソヴェトにおいては凡てがなほ建設の途上にある、この途上においては色々不十分なことがあるにしてもやがて理想は到達されてヒューマニズムは実現されるであらう、と。しかしジイドはかやうな過程主義的な考へ方を信じない。過程主義は結局人間の形而上学を量化して政治的性質に還元することになるからである。人間の形而上学的性質は絶対的なものであり、それ故に単に過程的に考へられることを許さない。過程主義乃至歴史主義とジイドのヒューマニズムとの間には人間性の根本に関する見解において相違がある。それにも拘らず、政治的性質もまた人間の本性に属するとすれば、これと形而上学的性質との統一は如何にして考へられるかといふ問題がジイドにとつても残されてゐる筈である。ジイドはこの問題について、未だ何の解決にも達してゐないやうである。政治とヒューマニズムとの調和が可能であるかのやうに考へてソヴェトを讃美してゐたジイドは、旅行によつて幻滅を味はつたのであるが、そのことはつまり彼のヒューマニズムが形而上学的なものであることを明かにしただけであつて、人間の二元性の問題の解決において前進があつたわけではない。
 ジイドのソヴェト紀行及び其修正は政治に対するヒューマニズムの立場からの真剣な批評である。この批評は何等政治的な批評でない故に、政治的には無力であり無意味であると云はれ得ると共に、また政治に対する最も深刻な批評であるとも云はれ得る。
 この書物は今日ヒューマニズムがおかれてゐる問題状況を明かにしたものとして極めて興味がある。