技術と大学の教育


四八二
 「人間の自然的素質の規整された沓展を助ける手工業技術が存在するのを知ることが早けれは
早いだけ人間はそれだけ辛頑である」とゲーテは書いてゐる。かくの如く技術に大きな教育的債
値を認めたといふことは、ゲーテの教育思想における優れた特色の一つである。彼が技術と云つ
たのは、彼の生活とその時代の状況とに相應して、主として手工業的なものを指してゐるが、彼
の言葉は現代の工業的技術についても眞であることを失はないであらう。
 ゲエアは技術の習得が何よりも人間そのものの形成即ち今日徳育とか人格教育とか云はれるも
のに封して有する重要性を力説した。賓際、誠賓とか、客観的なものへの服従とか、その外種々
の人間的な徳は、技術を通じて最もよく寧はれることができるであらう0技術教育は技術の有す
る教育的債催そのものの上からも尊重されねはならぬ。人格教育と技術教育とが相反するもので
ぁるかのやうに、或ひは全く無関係なものであるかのやうに考へる「精紳主義Lの教育論は間違
ってゐる。人間は環境を攣化することによつて同時に自己自身を攣化するのである0項墳を攣化
  宗旨a臣転
∵[甘け
することを通じてでなければ自己自身を現賓に欒化し得ないと云へるであらう。
 我々の生活は技術の基礎の上に立つてゐる。技術的活動が休止すれば杜曾生活は破壊されてし
まふであらう。今日の杜禽生活にとつて技術の有する重要な意義を願みるならは、大学の教育に
おいても技術が尊重されねはならぬことは明瞭である。従来の人文主義的教育思想はとかく技術
を樫祀する傾向がある、工科の如きは大挙に属すべきものでなく、専門学校に止計るといふ夙に
考へたが、かやうな考へ方は、杜禽の薔達と共にいよいよ重委性を増大しっつある技術の本質に
づいての認識を軟くものと云はねはならぬ。人間の存在はどこまでも環境における存在である限
り環境の形成は同時に人間の形成を意味し、技術と人文とは分離し得ない。新しい人文主義は技
・術についての根本的な認識を含まねはならぬ。
 しかし大学は技術家を養成しなけれはならぬと云つても、技術家にも色々ある。そこには先づ
大工と棟梁といつたやうな直別が認められる。普通の大工は学理に依るよりも寧ろ経験に基いて、
ルウティヌに徒つて、習慣的に、技術を行つてゐる。しかるに眞の棟梁は技術と共に思惟を有し、
技術的過程について原因結果の関係の知識を有してゐる。これによつて彼は他の技術家を指導す
ることができる。彼の技術は技術そのものと思惟との二つの部分から成つてゐる。大学の教育に
技術と大学の教育
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おいても既存の技術の習得はもとより大切である。技術は習熟されるのでなければ、謂はば習慣
・的なところを有するのでなければ、技術としての現質的債値を有しない。技術には責地の練習が
大切である。しかし、すべての技術は自然法則を基礎としてをり、従つてこの法則の認識におけ
る進歩は技術の進歩にとつて必要である。そして大学の大挙たる所以は特にかやうな理論的方面
を重んずるところにある。理論と技術とは不可分のものであるが、殊に大挙の大挙としての特色
は畢に技術の習得に止まらないで、技術に関しても理論を重んずる鮎になけれはならぬ。さもな
けれは、大学と専門学校との直別も不要である。思惟と理論の故乏は大学の本質の喪失を意味し
【てゐる。
 技術の進歩は理論の進歩に賓し得るであらう。技術の進歩から理論的辟結が引き出されなけれ
ばならない。逆に理論の蓉展は技術の薔展を促し得るであらう。理論の教展から技術的締結が導
き出されなけれはならない。また技術の進歩のためには理論における進歩を要するであらう。技
・術の進歩のために理論的研究が進められなければならない。大挙の教育はこれらの任務に封して
.行はれなければならぬ。
 時局は多数の技術家を必要としてゐる。そのために近年技術教育は大いに奨勒されてゐるが、
什け
しかしその反面、自然科挙においても理論的研究が無税される傾向が次第に著しくなつてゐる。
かやうな版行状態がこのまま進んでゆけは、やがて技術そのものの進歩も停頓し、遽には退歩し
なければならなくなるであらう。更に他方において時世は技術の要求する科挙的精紳と柏反する
種々の非合理的思想を蔓延せしめつつある。その結果は囲家に必要な勝れた技術家をも作り得な
くなるであらう。技術的精紳は科挙的精神を離れてあり得ないのである。
 右の如き状態に封して技術家は無関心であることを許されない。あらゆるものが践行的である
といふことは今日の特徴であるが、技術と理論とが版行的になつてゆくことに対して、大学はそ
の本質に従つて雷然理論擁護の立場に立たなければならぬ。かやうな現資に封しても理論的研究
に従事する者は技術家の協同に僕つてゐる。
 ところでユニヴァーシティといふ語の意味するやうに、大挙は或る意味において普遍的教養の
場所でなけれはならない。この普遍的教養はデイレツタンティズムと直別されることが大切であ
る。何一つ眞に専門的な教養を有しない者は眞に普遍的な教養を有することもできないであらう。
普遍は特殊と結び付き、特殊を通じて現れるものにして眞の普遍である。技術家はデイレツタン
トとまさに反封のものである。デイレツタントとは厳格な技術的訓練を有しない者のことであるP
技術と大学の教育
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技術家は専門家である。大挙の教育はどこまでも専門家を作らねばならぬが、しかし大学の本質
において更にそれ以上のことを要求されてゐる。眞の技術家は軍なる技術家以上のものでなけれ
ばならぬ。彼は自己の特殊の仕事の意味を普遍のうちにおいて自覚しなければならぬ。かやうな
自覚にも種々のものが考へられる。即ち一つの技術を仝憶の技術との関聯において認識すること
もそれである、.また技術と理論との関聯を認識する事もそれである。それらはいづれも重要であ・
る。しかし今日最も重要なことは、自己の特殊な仕事の意味を杜曾のうちにおいて自覚するとい.
ふことである。
 技術はもと人間の生活を向上させるために存するものである。しかるにその技術が人間を不幸
にするために使用されてゐるやうなことはないか。技術は労働を軽減して、人間が文化的に生活
することを可能ならしめるものである。しかし現在資際にそのやうな結果になつてゐるかどうか。
技術は物資を豊富にしてすべての人の生活を豊富にするものである。しかし技術の驚くべき進歩
にも拘らず今日果してそのやうな状態になつてゐるかどうか。これらの問題について現在の杜曾
生活の不幸の原因が技術そのものにあるかの如く考へ、そこから反技術主義を唱へるといふが如
きことは大きな間違ひである。原因は杜合そのもののうちに、その特定の機構のうちにある。人
臣転転監
乱軋廿
間生活の向上に貢戯し得る技術がその意義を完全に蓉挿することなく、却つて反封の結果になつ
てゐるのは杜曾的原因に基いてゐる。人間はすべて自己の行動の結果について杜曾に封して責任
を有するとすれば、技術家として自己の技術そのものに封して責任を有することは勿論、彼は韓
舎人として自己の活動の結果について杜曾に封して責任を有してゐる。人間の活動は根本的に組
合的である。技術家が技術の杜曾的意義について反省するといふことは、技術がその本質を制限
されることなく蓉挿するために要求されてをり、従つて技術家にとつて決して軍に外的なことで
はない。大挙の教育は職業に封して準備することを卑しむべきではないけれども、畢なる職業人
を作ること以上でなければならぬとすれば、かやうな反省は大挙にとつて必要である。
 かくして大挙の教育の立つべき新人文主義は、技術と人文との抽象的な分離に反封し、そして▲
デイレツタンティズムを却けて専門家の意義を強調すると共に専門家に封して祀曾的自覚、進ん・
で杜合そのものについての科挙的並びに技術的認識の必要を力説しなければならぬ。インテリゲ
ンチャはどこまでも優秀な技術家であるべきである。しかし今日の危険は、インテリゲンチャが
専門家として自己の技術にのみ頼らうとする傾向が紅曾の困難な現賓を岡避する一つの方便に撃
してゆく可能性を生じてゐるといふことである。
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