日本の現実
一
今度の支那事変は日本に新しい課題を負はせた。この課題はもちろん架空の理想ではなく、現実そのものの中から生れたものである。しかし課題は課題として現実に対立する意味を有してゐる、或ひは現実が同時に課題の意味を有するといふことが歴史的と呼ばれる現実の本質である。現実は課題によつて批判され、課題は現実によつて批判される。歴史の過程はそれ自身において批判的である。我々は歴史の意識的な分子としてかやうな批判を理論的に且つ実践的に遂行しなければならぬ。支那事変を契機に我々の前に与へられてゐるのは確かに新しい現実であり、新しい課題である。しかしながら、その新しさを強調することによつて、それが従来の歴史の発展から必然的に生じたものであるといふことを考へるのを忘れてはならない。我々の直面してゐる事態をこの際特に冷静に観察することが必要であればあるほど、そのことを忘れてはならないのである。興奮にあつてはただその新しさにのみ心を奪はれ易いから。
現在、日本の負はされてゐる課題には種々のものがあるであらう。経済的課題もあれば、政治的課題もあり、文化的課題もある。いま我々が取り上げようとするのは特に日本の思想的課題であり、従つてまた日本の思想的現実である。しかも思想の問題は決して局部的な問題ではない。政治、経済、文化のすべてが思想の問題に関係するといふことは今日においては殆ど常識となつてゐる。今度の事変にしても、一つの重要な点は思想の問題である。日本の対支行動の目的は爾後における日支親善であり、東洋の平和であると云はれる。目的は確かにこれ以外にあり得ない。問題は、そのやうな日支親善のイデオロギーは具体的には如何なるものであるか、或ひは如何なる内容の思想を基礎にして東洋の平和を確立しようとするのであるか、といふことである。我々はすでに数年前からこの間を繰り返し間ひ続けて来た。我々を満足させ得るやうな答は果して与へられたであらうか、我々の感ぜざるを得なかつた「思想の貧困」は果して救はれたであらうか。しかもこの問題は単に日支両国間の関係にかかるのみでなく、日本の立場を世界に理解させる必要が愈々痛切であると云はれる現在、それは国際関係の見地においても重要性を有してゐる。日本の対支行動の善意は我が国民の誰もが黙解してゐる。求められてゐるのは、この「善意」の「思想的」基礎であり「思想的」表現であるのである。
しかるに我々は今日なほ、民族主義者と称せられる人の口からさへ、次のやうな言葉を聞く。曰く、「今回の事変が中国共産党を枢軸とする抗日人民戦線派の進出によつて捲き起され、わが国が支那のかかる傾向を事前に阻止し得なかつたことは、支那に於いて…………………ことを意味する。ソヴェートの思想は支那民衆を把握し、ここまでひきずることに成功したのであるが、………文化工作はこれに対抗する…………ゐなかつた。否、………支那民衆に対して思想的に………………持つてゐなかつたとさへ云へるのである。…………支那に於いて、一部地方軍閥をその政治……………に置くと云ふ…………………、直接支那大衆に働きかけ、……………してゐないのである。澎湃として捲き起つた排日抗日思想に対して、日本はその取締りを支那政府に要求した以外、自らこれに対抗すべき思想政策、文化政策を……………………………かつた。これこそ重大な問題ではないか。日支事変はソヴェートのボルセビズムと日本の皇道精神がアジア大陸に於いて争覇しつつあるのだ、と説く論者がゐるが、少なくとも事変前の第一段階に於いて、日本は思想戦に……………と云はねばならない。況んや、反動主義者が考へてゐるやうな………………………
― 日本人にのみ通用して支那人や欧米人にはそのままでは理解し難いやうな精神
―
が、国内的には兎も角、国際的舞台に於いて思想戦を演ずるに充分であると考へること自身が、すでに大いなる錯誤なのである。現在の支那に於いてソヴェートは思想を与へ、欧米諸国は文化を与へた。これが支那民衆の間に彼等を××せしめる力となつてゐるのである。…………残念ながら支那民衆から支持を得るだけの思想も文化も与へてはゐなかつた。我々はこれを批判するに臆病であつてはならない。日本は支那をめぐる思想戦に於いて先づ敗れたのだ」(門屋博氏『国民思想』十月号)。同じ筆者は更に云ふ、「このことは、…………………の上では甚だ優秀であるが、…………………甚だ××であることを意味する。思想戦、文化戦に於いて……………ところを、…………に於いて数旬の中に回復しつつあるのだ。然し、思想戦が終結したのではない。武力戦の後に、更に広汎な、更に熾烈な思想戦が残されてゐる」。かやうな意見はもちろん新しいものではない。それはすでに以前から心ある人々が屡々云つてきたところである。我々はまた必ずしも筆者の意見に全部賛成するものではない。しかしながら筆者が日本の現実における思想の貧困について語る点には我々も全く同感である。云ふまでもなく、日本の政府はこの数年来、思想の問題に対して決して無関心であつたわけではない、むしろ熱心過ざるくらゐ熱心であつたのであり、そのために莫大な費用も投ぜられてきたのであつた。しかもその今日においてなほ、日本の思想的現実はかくの如きものである。日本精神や日本文化の研究は奨励されてきたに拘らず、思想の貧困の状態は何等改善されてゐない。いま我々の信念を率直に述べるならば、日本を救ひ得る思想は支那をも救ひ得る、否、全世界を救ひ得る思想でなければならない。最初から「………」といふ限定の附いた思想は……………をも救ひ得ない。それが現在の日本の現実であり、世界の現実である。
二
支那事変は思想的に見て少くとも先づ一つのことを明瞭に教へてゐる。即ち日本の特殊性のみを力説することに努めてきた従来の日本精神論はここに重大な限界に出合はねばならなくなつて来たのである。そのやうな思想は日支親善、日支提携の基礎となり得るものでないからである。日本には日本精神があるやうに、支那には支那精神がある。両者を結び附け得るものは両者を超えたものでなければならない。日本精神は日本人である限り誰もが身につけて持つてゐるものであり、失はうとしても失ふことのできぬものである。或る思想を取り入れることによつてそれが失はれたかのやうに見える場合においても、実は、それを失つたのでなく、却つてその思想が真に血肉化されてゐないことを示してゐるに過ぎない。世界史的に見てファッシズムはイタリアにおいて現はれたものであるが、それは単なる「イタリア精神」といふが如きものでなく、思想的用語としてもまたかやうに呼ばれてゐるのではない。コンミュニズムはもとより、国民主義を唱へるファッシズムにしても、世界的なものである。現代において「思想」とは恰もかくの如き性質のものであり、その意味においては単なる日本精神…………でないとさへ云ひ得るであらう。日本精神を拡張すれば世界的になり得ると云ふ論者も多いのであるが「思想」の論理的順序
― その発生的順序はともかく ―
は逆であつて、世界的妥当性を有する思想が建設され、そしてその中において日本を生かすといふのでなければならない。今日必要とされるのはまさにかくの如き論理的な思想である。それが日本精神から出てこなければならぬものであるにしても、そこには自己をも否定する飛躍的な発展がなければならない。まことに、大思想を有するものにして大国民と云はれ得るのである。
あの「持てる国」と「持たざる国」といふ議論も現在なほ行はれてをり、……………………客観的根拠をそこに求めようとする者も存在してゐる。しかるに、その議論はだいいち日本的なものでないのみでなく、何を標準として持てる国と持たざる国とを区別するかも、仔細に考へるならば、容易に決定し難いことである。この標準が主観的なものに障り易いところから、その議論はいはゆる優勝劣敗、……………といふ思想に変る危険を有するのみでなく、それは根本において自由主義思想を一歩も出てゐない。それはせいぜい勢力均衡論に終るのほかないであらう。しかも持たざる国は持てる強国に向つてその持てるところのものを直接に要求するのでなく、却つてそれらの強国…………対して自己の持たうとする物を要求するのがつねであるから、その議論は植民地再分割論となる。植民地再分割論の是非は姑らく措くにしても、何等の領土的野心も有せざる日本の対支行動の目標が支那を植民地化することであり得る筈がなく、むしろ欧米の帝国主義による支那の植民地化から支那を救ふことが日本の目的であるとせられてゐるのである。すべての民族が各々その生存を完うするといふことは理想であるに相違ないが、それは持てる国と持たざる国といふが如き自由主義思想によつて到達され得るものでないことは、自由主義が全面的に批判されてゐる今日甚だ明瞭である。またそのやうな議論は崇高な皇道精神とはすでに気質的に相容れないものを有する筈である。然らば、日本精神は如何なる理論体系によつて世界的妥当性を要求し得るであらうか。
いはゆる日本精神、………………、等々が如何なるものであれ、現在、国際的には日本が世界…………………国の一環に属すると見られてゐることは、好むと好まざるとに拘らず、否定し得ないであらう。国内的には日本主義は………………でないと主張されてゐるにしても、それが国際的には………………………であると考へられてゐることは蔽ひ難いことであるのみでなく、そのイデオローグたちも日本精神の現代化に当つては外国の…………………………………………してゐることは争はれぬ事実である。そして今日の経済的、政治的、文化的段階において、或る一定の思想について問題になるのは、その国内的意味のみでなくて特にその国際的意味であり、その謂はば秘教的意味であるよりも科学的乃至哲学的意味である。ところで、もし仮に日本主義が……………………………ならないとすれば、日本の対支行動の主なる目的の一つは支那の赤化を防止することにあることが言明されてゐる場合、いはゆる………………………………も生じ易いことになるであらう.現在の国際状勢において、ソヴェートと世界の民主主義国との提携が屡々行はれてゐることを考へるならば、日本の政治の指導精神の意義を秘教的にでなくて科学的乃至哲学的に世界に通用する言葉をもつて閘明する必要はこの方面からも生じてゐるのである。かくして思想の問題が日本の全現実に関はる重要な課題となつてゐることは明かである。これに対して日本の思想的現実は如何なるものであらうか。
三
右の状況に応じて従来の日本精神論は決定的な瞬間に立つに到つたやうに思はれる。それはファッシズムであることを宣言するであらうか。それにとつてその他如何なる飛躍的な発展が可能であらうか。このとき、支那事変の影響のもとに、「東洋思想」とか「東洋文化」とかといふ問題が新たに日程に上り始めたのも決して偶然ではない。かくて今や「日本的なもの」は「東洋的なもの」にまで拡大されようとしてゐる。これは思想の見地から云へば確かに一歩前進を意味してゐる。しかしすでに東洋的なものにまで拡大された思想は何故に世界的なものにまで拡大されてはならないのであるか。「日本の統一」の存在することは明瞭である。しかし同じやうに、「東洋の統一は思想上において、文化上において存在するであらうか。もしかやうな統一的な思想が存在するとすれば、それは如何なるものであらうか。東洋を統一する思想は少くとも現在の段階においては世界的な思想でなければならないのではないか。世界を救ひ得る思想で………………東洋をも救ひ得ないといふことは真理ではないのであらうか。これらの問題について考察することが我々にとつて必要になつて来たのである。ここでは簡単にその点に触れておかう。
先づ日支親善の基礎として持ち出されるものに「……同種」といふことがある。しかるに、……………………………………存しないことは更めて論ずるまでもない。それは一個の神話であり、神話としても何等……………有するものではない。日本人と支那人とは同種であるといふことは事実に反するのみでなく、同文であるといふこともまた真ではない。日本人は日本語の一字を支那の文字をもつて書き現はしてゐるが、それは支那人が支那語の表徴として同じ文字を使ふ場合と使ひ方を異にしてゐる。そして日本語の他の一字は支那語のままの或ひは支那語風のものを単語として用ゐてはゐるが、かやうな用ゐ方は明治時代になつてから寧ろ多くなつたと云はれてをり、実際に日本語化した支那語であれば、仮名で書いてもローマ字で書いても差支へないわけである。両者が全く違つた言語であるといふことが一部分の同文であるといふことよりも遥かに重要な事実である。しかもその難しい文字のために支那の文化の発達、特に大衆の間における教育の普及が妨げられたといふことは進歩的な支那人の気附いてゐることであり、ローマ字運動の如きものも極めて活溌に行はれてゐるのである。すでに歴史を有する支那におけるローマ字運動が成功する時が来るとすれば、日支同文などとは仮にも云ひ得ないことは明瞭である。
それでは東洋思想の統一といふものは存在するか。専門学者の説に依れば、元来、東洋といふ語が一義的なものでなく、歴史においてその意義が変遷してゐる。東洋といふ名称はもと支那から起つたものであつて、明初または元末の頃、南海から般で交通する地方をその位置に従つて区別し、東部にあるのを東洋、それより西の方にあるのを西洋と称したことに始まつてゐる。即ち概して云へば、フィリッピン群島方面が東洋、それ以西の群島及び沿海地方、竝びにそのさきのインド洋方面が西洋と呼ばれたらしいといふ。やがて西洋はヨーロッパをも含むことになつたが、東洋は後までも狭い範国に限られ、ただ近い頃になつて元来方角違ひの日本が東洋と呼はれる場合が生じた。日本紙を東洋紙、また日本人を悪口して東洋鬼と云つたやうに、東洋は日本の異称ともなつた。西洋はもとより東洋にしても、支那から云へば、すべて蕃夷の地である故に、支那自身は東洋のうちに含めて考へられなかつた。日本においては、幕末の頃、東洋といふ名称は支那をも含むものとして、文化的には寧ろ支那を中心とするものとして用ゐられた。この場合、支那人が南海から交通する諸蕃の地を東洋と西洋とに二分したのとは違ひ、世界の文化国を二大別して考へたのであつて、言葉の意味は全く変つてゐる。そのとき東洋のうちにはもちろん日本も含まれるが、それは日本が支那の儒教を受け入れてゐることから、西洋の技術的文化に対立させて、支那と日本とは同じ道徳的文化を有するものと見られた為めであつた。「当時の知識社会に属するものは、西洋の学藝を学んだものでも、其の思想の根柢には儒学によつて与へられた教養があつたため、かういふ考が生じたのである。だからこれは、幕末時代……………思想家が西洋の文化に対立するものを………みづからのみには求めかね、彼等が××してゐた支那の文化、特に儒教、を味方とし、むしろそれに……しようとしたところから生じたものである、といつても甚しき過言ではあるまい。少くとも、西洋に対抗するに当つては、日本としてよりも所謂東洋としての方が心強かつたのである。さうしてそこに、儒教の教養をうけたものの有つてゐた思想上の事大主義とでもいはるべきものがある。此の意義での東洋といふ語が当時の日本人に於いて始めて意味のあつたもの、日本人によつて唱へ出されたもの、であることは、かう考へると、おのづから明かになる」(津田左右吉氏「文化史上に於ける東洋の特殊性」岩波講座『東洋思潮』)。ところで、日本における東洋といふ語のかやうな用ゐ方は明治以後においても継承せられた。しかし西洋に対する称呼としての東洋が支那と日本とのみを指すのでは範国が狭すざると感ぜられ、殊に日本の文化に対する仏教の意義が認められるやうになつて、インドが重要な一環として東洋といふ概念の中に含まれることになつた。ただその場合においても、日本と支那とインドとを含む東洋が果して西洋の如く一つの世界であり一つの文化を有するものであるかどうかは深く反省されず、非西洋といふことを東洋といふ語で現はしたのに過ぎなかつた。そして西洋の文化を逸早く取り入れることによつて近隣の諸民族に先んじて近代的発展を迭げるに至つた日本において、日本は東洋の先駆者であるとか盟主であるとかといふ思想も現はれたが、その場合に於ける………………………………のものであることが多かつたといふことに注意しなければならぬ。例へば、今日なほ唱へられてゐる王道政治論などはそれであつて、実行的には日本本位であるが、思想的には……尊尚である。また最近我が国において頻りに云はれてゐる「教学」思想の如きものも、元来支那的なものであつて、徳川時代の国学者が排斥したのはそのやうな教学思想であつたのである。
四
西洋が全体として一つの世界を形作つてゐることは一般に認められるところである。それは先づローマ帝国において統一され、次にカトリック教会のもとに中世を通じて統一を続けて来た。その文化はギリシア・ローマの古典文化を基礎とし、キリスト教によつて普く浸潤され、またルネサンス及び宗教改革を経て近世に至つてはそれ自身本質的に普遍的な科学の発達を生ぜしめた。東洋文化にはかやうな統一が認められるであらうか。津田左右吉博士はこの点について、東洋においては同様の統一は何等存在しないと述べられてゐる。
先づ支那とインドとでは、風土が違ひ、民族が違ひ、生活の状態が違ひ、その文化はそれぞれ独立に発達し、それぞれ独立の性質を具へてゐる。それは二つの地域を隔離する山地と高原と、竝びにそこに居住する種々の未開民族とが両者の交通を困難にしたのと、支那もインドもそれぞれ広大にして豊沃なる平野を有する農業国であり、いづれも自己の世界において自己の生活を営むことができ、互に他に依頼する必要がなかつたのとの故である。或る時代から後には両者の間にかすかなつながりが生じ、仏教の如きはもちろんインドから支那へ伝へられたものであるが、しかしインドの方では支那から何物をも受け入れてゐないといふことが注意されねばならぬ。仏教は信仰として学問としても伝へられ、その儀礼や僧団の規律や組織なども学ばれたが、しかし支那に入つたのは仏教に限られ、インドの民族的宗教として重要なブラマ教或ひはインド教は伝へられず、ただそのうち仏教化されて仏教の中に摂取された部分のみが、仏教として伝へられたに過ぎない。その仏教の与へた感化も局限されてゐて、民衆の生活に対する影響は微弱であり、また仏教が入つて来た為めに支那における道徳や政治に関する思想が変化したやうなことはない。それは、ヨーロッパがキリスト教化され、ヨーロッパ人の思想がキリスト教の上に立てられたと日本の現実いふのとは、その趣を全く異にしてゐる。支那において仏教がいつのまにか衰へて来たといふことは、それが民衆の生活の内的要求には深い関係のなかつたことを示すものにほかならぬ。かやうにしてインドと支那とを含めた東洋の歴史といふものは成立せず、東洋文化といふものも××しないと考へられるのである。すでにこの二つを包括するものとして一つの東洋文化といふものが××しない以上、更に日本を加へた意味においての東洋文化といふものも××しない筈である。それでは日本と支那とだけは一つの文化世界を形成するであらうか。津田博士は此の問に対しても否定的に答へられてゐる。日本と支那とでは、民衆が違ひ、風土が違ひ、生活も風俗も慣習も社会組織も政治形態も殆ど共通のものがない。もとより日本は古くから…………文化を学び、これを××することに努めて来た。支那の工芸、文字、学問は日本に入り、政治上の制度さへも移植せられたことがある。支那化された仏教が伝へられたことは云ふまでもない。しかし、かやうにして支那の文物を直接に享受したのは主として貴族階級であつて、民衆の生活には関与するところが少く、また日本と支那との交通は民衆と民衆との接触ではなかつた。支那から移植されたものは時を経るに従つて日本人の生活に適合するやうに変化され、貴族階級において日本化されたものが次第に民衆の間に拡がつてゆくと共に一層日本化されて、もはやその淵源が支那にあることすら明かには知られないやうになつた。そしてそれが民衆の生活の変化として現はれて来た。かうなると、支那文化の日本化は単にそれだけのことではなくて、それによつて日本の文化が新しく創造されたことを意味する。そしてそこに全体としての日本の民族生活の歴史的発展がある。しかもこの歴史的発展は支那とは無関係に進行して来たのであつて、日本と支那とはそれぞれ別の世界であつた。日本の歴史は日本だけで独自に展開せられたのである。支那を学んだ律令の制度を漸次破壊していつた国民の活動、その活動の一つの現はれである平安朝の貴族文化の発達とその崩壊、同じ時代における武人階級の成立、その行動の組織化としての幕府による新しい政治形態の形成、貴族文化の武士化民衆化、戦国時代の出現、その戦乱の状態の固定化としての近世における封建制度の大成、その制度の下における平民文化の発達、或ひはまた封建制度の自己破壊によつて生じた武家の政権の覆滅、かやうな日本の歴史の展開は支那の歴史の動きとは何等の交渉も有しないものである。学問や藝術の方面だけを取り出して見ても同じであつて、日本の学問史藝術史は支那のそれらとは全く別個に展開せられた。例へば、宋学とか宋元画とかのやうに、支那の或る時代の学問や藝術が或る時間を隔ててから日本において学ばれるやうになつたことはあるが、それらの学問や藝術の形成せられた当時の支那の文化の動きは同時代における日本の文化とは全く交渉のないものであり、また日本においてそれらが学ばれるやうになつたといふことも、支那の学問史藝術史にとつて何の意味もないことであつた。要するに日本と支那とを包括する或ひは両者に共通な学問界や藝術界は成立してをらず、従つてそれらは一つの歴史を有しなかつたのである。日本の歴史の展開が日本だけで行はれた独自のものであるとすれば、その歴史によつて養はれた日本の文化が日本に独自のものであることは云ふまでもない。
かくの如く東洋文化の統一は存在しないとせられる津田博士の説には傾聴すべきところが多いであらう。日本の文化と支那の文化とを同一視してそれを東洋文化と称するのは、日本人の生活そのものを直視しないからであり、支那に対する理解が不足してゐるからであると博士は云はれてゐる。儒教の日本化とか仏教の日本化とかといふことも、博士は極めて局限された意味においてのみ認められてゐる。我々はこの専門学者の言を信じ且つ尊重すべきである。世間で漠然と考へてゐるやうな、日本とインドとはもとより、日本と支那との文化的もしくは思想的統一の××しないことは確かである。津田博士が民衆の生活を中心として歴史を見てゆかれる態度にも学ぶべきところが多いであらう。実際、今後のこととしても、日本と支那との間に真の文化的結合が生じ得るためには、両国の民衆と民衆との接触することが大切である。いづれにせよ、それが日支親善の基調でなければならない。ただ文化の問題を考へる場合、博士の方法は民間信仰や民間の慣習などに余りに重きをおかれ過ぎる傾向がある、従来の歴史においては或る一定の時代の文化とはその時代の………………文化のことであるとして理解しなければならぬところがあり、さもないと文化の直線的な連続的な独立性の方面のみが強調されて、その円環的な環境的な影響の方面が軽視されるといふ一面性を免れ難いであらう。かやうに見るとき、支那文化やインドの仏教が日本文化に与へた影響はそれほど低く評価することができなくなる。津田博士はまたその場合、同じ時代の文化の直接の交通といふことに余り重きをおかれ過ぎてゐるやうに思ふ。そして支那の文化が、それの形成された時代から隔つた後においてであるにしても、日本に影響を及ぼしたといふことがあつたとすれば、支那思想と日本思想との間に何か一致するものがあると考へられないであらうか。自分にその何等の素質もない他のものを受け入れることはできない。また両者が異るとかいふことは両者に共通のものがあるといふことを妨げるものではない。西洋文化の統一と云つても、フランス文化とドイツ文化とがそれぞれ特色を有することを否定するものではなからう。ただ漫然と東洋の文化的統一を考へることに対して津田博士の批評にはまことに鋭いものがあり、尊重すべき説ではあるが、それを承認しながらなほ東洋思想に共通な特色は存しないかといふ問題が提出され得るやうに見える。
五
ところでインド思想の支那思想に対する影響は一方的であり、更に支那思想の日本思想に対する影響は一方的であるとすれば、いはゆる東洋思想を求めようとする場合、それは差し当りインドから支那に入り、支那を通じてまた日本にも来たものに求められねはならぬやうである。かやうなものは云ふまでもなく仏教である。インドの仏数が支那や日本に普及し得たといふのは、日本や支那にも仏教を受け入れ得る思想的素質があつたからであると考へられるであらう。かくして東洋思想として挙げられるのは、仏教において最も理論的に展開された「無」の思想である。この無の思想は単にインド的なものでなく、まさに東洋的なものであり、その理論化においては支那がすぐれ、その実践化においては日本がすぐれてゐたとせられるのである。儒教などに比して仏教が日本の民衆の生活の中へ遙かに深く入り込み得たことは津田博士も認められてゐる。しかるにかやうに仏教が支那や日本に伝播し得たのは、それが「世界的宗教の性質を有し」そのうちには「人類一般の宗教的要求に応ずるもの超民族的世界的要素があつたからであり、インド的特色があつたためでは無い」(津田左右吉氏)。かくの如くであるとすれば、仏教を東洋的といふことすら或る意味においてはすでに不適当であらう。西洋文化を形成するに与つて力のあつたキリスト教も西洋人によつて「東方からの光」と呼ばれたのであるが、キリスト教自身は東洋的でなく、また単に西洋的でもなく、まさに世界的宗教である。仏教はインド、支那、日本の三国においてそれぞれ特色を有するが、それがかやうにインド的でも、支那的でも、日本的でもあり得たのは却つてそれが世界的である故である。
しかし今日の仏教は日支提携の基礎となり得るであらうか。仏教は現在の支那においてはすでに衰微してしまつてゐる。日本は世界最大の仏教国であると云はれるが、その日本においてすら現在、仏教は知識階級からはもとより大衆からも見はなされつつあるのである。近年わが国において叫ばれた「宗教復興」の如きも、実は、類似宗教の擡頭、邪教の発生以外のものではなかつた。そして仏教家は自己の力によつてそれらを退治したのでなく、却つてただ官憲の力のみがそれらを弾圧し得たのである。かやうな状態にある仏教に、まして支那において、親善提携の原動力となることを期待し得るであらうか。仏教もただ武力と官憲との行く処に蹤いてゆくのみではないか。そのうへ、今日の仏教は実は「…………………」に化してしまつて、その本質たる世界性を抛棄して怪しまないといふ状態にあることを注意しなければならぬ。更に不思議なことには、キリスト教は個人主義であるに対して仏教は国家主義であるなどと説く者さへあるのである。西洋の立派なキリスト教国の中にも現在、全体主義や国家主義を唱へてゐるファッシズム国の存在することを知らないのであるか。仏教の無の思想にして初めて国家主義を含み得ると云ふ者もあるが、かくの如きは却つて無は無として何とでも都合よく時世に応じて結び附き得るといふ弱点を現はしてゐるとさへ見られることができるであらう。
「アジアは一なり」といふのは岡倉天心の『東洋の理想』の冒頭に掲げられた句である。天心の傑作は『茶の本』であると思ふが、その中で茶と道教及び禅道
― 共に無の思想を代表してゐる ―
との密接な関係を論じ、「先づ第一に記憶すべきは、道教はその正統の継承者禅道と同じく、南方支那精神の個人的傾向を表はしてゐて、儒教といふ姿で現はれてゐる北方支那の社会的思想とは対比的に相違があるといふことである」と書いてゐる。老子教に関する歴史的穿鑿は姑らく措いて(例へば長谷川如是閑氏『老子』参照)、それが後の時代において禅と共に「個人的傾向」を現はしてゐることは事実であらう。支那における宋学勃興の歴史的意義は禅の個人的傾向を「社会的思想」によつて超克しようとしたところにあると見られることもできる。無の思想が個人的でなかつたとは云ひ得ないことは確かである。少くとも今日、世間一般に理解されてゐる限り、それは一定の社会思想や政治思想を明示するものではなく、従つてそれのみでは社会や政治に関する指導原理となり得るものではない。ところで「アジアは一なり」といふ天心の言葉は、その歴史的真実はともかく、一つの神話を現はしたものである。我々はこの神話が全く無意味なものであつたとは考へない。現に天心のこの有名な言葉は、インドの志士の間に流布されて、その独立蓮動のモットーにされたのであるが、丁度そのことから知られ得るやうに、この神話はいはゆる白人帝国主義から東洋の民族を独立させようとした時代のものとして意義があつたのである。それが日本人の口から出たとすれば、そのとき日本は世界の後進国として西洋に負けないやうにし且つ東洋の先達とならねばならぬといふ意識を表現したものであると理解し得るであらう。しかるに今日においては、日本はもはや何等後進国でなく、却つて世界の大強国の一つである。そして支那からは、欧米と同じく日本も一帝国主義国と見られてゐる場合、日本が「アジアは一なり」といふモットーをもつて臨まうとすれば、支那人は如何に受取るであらうか。日本の対支行動の目的が支那を「欧米依存」の迷夢から覚醒させることにあるとすれば、それは具体的には……………………………………せしめることでなければならぬであらう。日本自身に何等帝国主義的思図の存しないことは政府の累次の声明によつて明かである。それでは資本主義の弊害を是正して日本と支那との「共存共栄」を計り得る思想は如何なるものであらうか。かやうな思想が如何なるものであるにしても、それは単に日支間の関係が求めてゐるのみでなく、日本自身がまた国内において、そして全世界の民衆が等しく求めてゐる思想、即ち世界的思想であるといふことだけは明瞭である。かやうな思想を日本は単なる「善意」としてのみでなく、「思想」として、支那人にはもとより世界のすべての人に理解され得る体系として有しなければならない。
ところで他の方面から見るならは、「アジアは一なり」といふことはまさに現代において実現されつつある。しかもそれは「世界は一なり」といふことを通じて実現されつつあるのであるといふことに注目しなければならぬ。即ち津田博士の云はれる通り、東洋の統一は「西洋に源を発した現代文化、其の特色からいふと科学文化とも称すべきものを領略する」ことによつて次第に実現されつつあるのである。この主張において我々は津田博士の識見に全く敬服する。先づ日本については、「昔の日本人が書物の上の知識やいくらかの工芸によつて支那の文物を学んだのみであつて、日本人の生活が支那化したのでは無かつたのと違ひ、今日では生活そのものが、其の地盤である経済組織社会機構と共に、一般に現代化せられたのである。(此の差異は日本に於ける現代文化の性質を知るについて極めて重要であるに拘らず、世間ではともすればそれに注意しない。)だから今日の日本の文化は此の現代文化の日本に於ける現はれである。其の日本での現はれであるところに、日本の風土や歴史によつて生ずる特殊化はあるけれども、さうしてまた此の現代化が割合に短日月の間に行はれたがために、過去の因襲と奇異なる抱合が生じたり民族生活の深部に徹しなかつたりするやうな欠陥はあるけれども、今日に於いては現代文化、即ち所謂西洋文化は、日本の文化に対立するものでは無く、それに内在するものであり日本の文化そのものであることに、疑ひは無い。さうして其の意味に於いて日本と所謂西洋とは文化的に一つの世界を形成してゐるのであり、日本人の文化的活動は世界史上の活動なのである。」同様のことは支那においても、もちろんその間にかなり大きな懸隔はあるにしても、起りつつあり、進みつつあるのであつて、それによつて日本と支那とは一つの文化的世界を形成し得るに至りつつあるのである。多数の留学生が支那から日本へ来て学ばうとしたのも、かやうな日本における現代文化にほかならない。…………………………目的は、日本にとつて必然的であつたやうに……………………必然的であるところの、この現代化、この世界化と××するものであることができない。二千年も昔の、しかも支那で形成された政治思想の如きものを現在持ち出すことに多くの意味があるであらうか。××自身のうちに勃然として起つてゐる現代化への傾向を抑止することは、支那にとつても日本にとつても有利なことではない。もし万一、…………復古的になつてゆき、……………現代化を進めてゆくといふことがあるとすれば、やがて………………代へねばならなくなるであらう。
東洋の統一といふものが考へられるにしても、それも世界の統一の内部においてのみ考へられ得ることである。この統一のために日本や支那が各々の個性を全く失つてしまふことになるのではない。かやうなことはあり得ないことである。従来の東洋における統一的思想が無の思想であるとしても
― この統一の現実基礎としてマルクス主義者はいはゆるアジア的生産方法なるものを挙げるかも知れない
―
、それが現在において力を有するものであるためには、それは先づ世界化されねはならず、特に科学的文化と結び附かなければならない。我々は決して伝統の価値を軽視するものではないが、それが科学、このつねに世界的普遍性を有するものを発達せしめ得なかつたところに東洋思想の重大な制限があることは疑ひ得ない。また我々はもとより単純に西洋思想を取り入れよと云ひ得る状態にあるのではない。いはゆる西洋思想のうちにも今日種々の対立があるのである。
かくて要するに、日本の現実、東洋の現実は世界の現実である。………………………………今日においては、世界の思想となり得るものでなければ日本思想でも東洋思想でもあり得ない。過去の東洋思想をいくら拡大しても世界的に且つ現代的になり得るものではない。そこには静止と運動との間におけるやうな、ただ飛躍によつてのみ達せられ得る差異がある。日本と支那との間に「東洋の統一」が民族的にも言語的にも存在しないといふ事実を憂ふるに足らない。世界文化の統一の中においては、日本と支那とがそれぞれの特殊性を発揮するといふことが、いはゆる東洋の統一よりも大切なことである。