帝国藝術院の問題
十五日の朝刊の報道に依ると、文部省では目下帝国藝術院の創設を企図してゐるとのことである。これは現存の帝国学士院と並んで美術、文学、演劇、音楽、映画等、藝術のあらゆる分野を包括するアカデミーたるべきもののやうである。
帝国美術院の問題は松田文相の改組以来、文部省を散々に悩ましてきたものであるが、今度の帝国藝術院の案は一方この問題に対する一つの解決策であると共に、他方政府がかねてもくろんでゐた藝術統制を広範囲に亙つて実行しようとするものと見られ、藝術行政の立場から云へば、一石二鳥の巧妙な案であると云へるであらう。
藝術アカデミーが出来ることはそれ自体としては決して悪いことではない。問題は、今日の政治的並びに文化的情勢において、果して有意義なアカデミーが作られ得るかどうか、またそれがアカデミー本来の機能を営み得るかどうかといふことにある。
美術院の改組も元来美術統制の下心があつて企てられたものであらうが、それが完全に失敗に終つた事情を考へるならば、今度の藝術院では美術以外の諸部門をも包括する一関係上美術方面の会員の数は勢ひ減少されねはならぬわけであり、その場合、美術家の諸団体に対して睨みの利くやうなアカデミーが出来るかどうかが問題であらう。展覧会を藝術院から切り離すといふことには賛成できる。しかしその上でなほ何故に文部省が展覧会の開催を考へねはならないのであるか、疑問である。美術家の団体を基礎としない展覧会は超然内閣同様、民衆には有難くないものであらう。従来の文展乃至帝展はともかく一定の美術団体を基礎としてゐたのである。
また文学の方面を考へると、藝術院の中でいはゆる大衆文学が如何なる位置を占めるのかが問題になるであらう。文藝懇話会の例を見ても、これは早速問題になつて来ることである。もつと広く考へれば、今日の文壇においては何が一体アカデミズムであるのかが極めて困難な問題になつてゐるのである。一般に文化の理念にそれほど深い混乱、鋭い対立が存在してゐる。文藝懇話会賞の場合にも或るプロレタリア作家が問題になつたことがあるが、官設の藝術院がプロレタリア文学に対してそれ以上好意のある態度を取るとは想像されないし、更に文化動章の場合のやうに会員の思想のみでなく「人格」までも問題にすることになれは、いろいろ微妙な問題が生ずるであらう。
現存の帝国学士院を見ると文科の方面の活動は極めて振はないのであるが、帝国藝術院が若し政治的に無難なものであらうとすれは同様に有名無実に近い存在にならねはならぬのではなからうか。今日のやうな政治的情勢において藝術の本格的な保護奨励を期待することが無理であり、保護奨励されるものはつねに只一定の種類の藝術に過ぎないであらう。積極的な保護奨励よりも自由が与へられる方がむしろ文化のためには有難い時世なのである。
考へて見れば、日本の藝術アカデミーも実に不運な時世に誕生するものである。尤もかやうな時世であるからこそ、藝術院を作つて藝術統制を行はねばならぬと云ふのかも知れない。