文化の風俗化
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今日我々が特に考へねはならぬのは文化人の責任といふことである・文化人は言ふまでもなく
文化に封して責任を有してゐる0もとより文化人も杜合と囲家に封して責任あるものである0し
かし文化人が文化人として杜曾と囲家に対して名うてゐる責任は特殊的には文化に関係してゐる・
支郷事攣以来、我が囲の文化は種々の欒貌を迭げつつある0それは果して眞に望ましい方向に
進んでゐるであらうか.この反省において、最近特に注意しなけれはならないのは、文化の風俗
化ともいふべき現象である。
例へはこのごろ本が非常によく費れるといはれてゐる0それはそのこと自饅としては確かに喜
ばしいことに相連ない.その現象はこの時代の必要に應じて眞面目に知識を求め思想を探ねると
いふ傾向を反映してゐるであらう・しかし請書といふこともまた烈しい現青から逃避するための
一つの手段となることができる0それのみでなく、本が費れるといふことは、文化が風俗化しっ
っぁる;の徽候であると見られるのである・つまりスフ入りの洋服を新調するのと同じやうな
文化の周俗化
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意味において本を冒ふ者が多くなつたといふことである。
去年の秋ごろから現はれ始めたこの文化の急速な夙俗化は、経済的に見れは、いはゆる軍需景
気の影響に基いてゐる0いはゆる軍需景気は一定の道を通じて廣い意味におけるインテリゲンチ
ヤにも浸潤し始めた0失業インテリゲンチャの教は次第に減ずるに至つた。しかるに今日の経済
の如く、経済が金の経済から物の経済へ移つた時代において、インテリゲンチャにとつて特に成
心を変することは物を直接に取扱ふことから速い彼等はその意識においても知らず識らず遅れて
ゆく危険があるといふことである0我々が知性を働かせて現象の背後の本質の把握に努力するこ
とが特に必要であるのは、すべてが我々にとつて好調子に持じて来たやうに見えるこの時代であ
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文化の風俗化による文化の低調皮相化
に封しては、文化の供給者もしくは生産者の側に責任が
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あると共に、文化の需要者もしくは消費者の側にも責任がある。
先づ滑費者の側について言へは文化の夙俗化は彼等が自主性を失つたところに胚胎してゐる。
例へは讃書において恰も風俗上の流行と同様の心理で本が買はれ或ひは讃まれてゐはしないであ
らうか、流行に追従する者は自主性を有しない着である。自分の眼で批評し自分の頭で選拝して、
系統的に請書するといふのではない。しかるにこのやうに自主的でないといふことは無責任とい
ふことと同じであり、自己の責任地棄にほかならない。責任の観念を有する者はつねに自主的で
ある。
もし讃者が日本の文化に封して責任あることを自覚してゐるならば、彼は日々移しく生産され
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る印刷物について自分自身で許債し、善い本が接まり惑い本が影をひそめるやうに考へるであら
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う。讃者が厳正な批判の眼を有するといふことは自分の学問や教養にとつて必要であるのは固よ
り、そのことによつて日本の文化に封する自己の責任を壷すことになるのである。恰も選挙にお
ける自主的な投票が政治に封する自己の責任の観念から蓉するやうに、讃書といふ一見軍に個人
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的なことがらにおいても各人は自主的であることによつて文化に封する自己の責任を果し得ると
いふことを考へなけれはならない。
しかし文化の風俗化に封する責任は文化の供給者或ひは生産者、即ち狭義における文化人のも
のである。もちろんそれは文化の需要者或ひは滑費者にも関係してゐる。文化の風俗化は、例へ
ば讃書の場合、今日の杜曾経済的諸関係の攣化によつて讃者層が接大すると共に新しい讃書階級
が出現し、その要求に柏應して生じたと見られ得るところが砂くないであらう。尤も、かやうな
文化の風俗化
二一九
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讃者層の接大は、文化の風俗化による文化の浅薄化皮相化を伴つてゐるとはいへ、そのこと自憶
としては文化の普及或ひは寧ろ文化的要求の普及といふ重要な意義を有してゐる。我々はそこに
ともかく戦争が文化に及ぼした好影響の一つを見ることができる。
讃者層の按大、新頭書階級の出現は文化の生産者の側に反映し、その要求に従つて文化の風俗
化を生じたとはいへ、これもまた同時に、例へは文学の場合、その取材の範囲が接張され、その
窺材がともかく社合性を有するものとなつたといふやうな好結果をも蘭してゐる。これによつて
文学が従来のいはゆる文壇に局限されないものになつたのは喜ぶべきことである。しかしそれが
同時に文化の風俗化の要求乃至傾向と結び付き、ここに新しい通俗文学の種類を薔生せしめサつ
あることも注意されなけれはならない。
そしてその場合特に注意を要することは、かやうな文化の風俗化がいはゆる「国策に治ふ」と
いふ名目と結び付いて生じつつあることである。囲策に沿ふといふことはそのこと自債としては
固より何等非難すべきことでなく、寧ろ甚だ立派なことである。しかしそのことから文化の風俗
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化、新しい通俗文学の如きものが生じつつあるとすれば、文化の閏超に関して囲策に治ふといふ
ことの本来の意味について深く反省することが必要である。
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賓際、文学もまた囲策に治はねばならぬといふ要求が掲げられて以来、種々の名を冠した文学
が無数に現はれるやうになつた。日く何々文寧、日く何々文学と、その名は限りなく殖えてゐる。
そのことは新しい通俗文学への傾向を示してゐる。文学は各々の作家にとつて本来一つしかない
ものであるべきだのに、種々の種類の文学があるかのやうに見えるのは文学の風俗化の結果にほ
かならないであらう。囲策に治ふと構しながら文学自憤としては通俗化への方向をとつてゐるの
である。
そして国策に治ふといふことからこのやうに種々の種類の文学が生じたといふことは、文学者
が自主性を失つたといふことの澄捺である。もし彼等が自主的であるならは、各々の作家にとつ
て文畢は唯一つしかない筈である。しかるに文化人が自主性を失つた場合、文化は通俗化を通じ
て風俗化に至ることは自然の勢である。
国策に治ふと−いふことが決して悪いのではない。ただその際文化人は文化の立場において飽く
までも自主的でなけれはならないのである。囲策に治ふといふことが一種の流行となり、ただこ
の流行に遅れないことをのみ努めるといふのでは、文化の眞の蓉達は期し難い。自主性を失ふこ
とによつて文化が質的に低下し、浅薄化するに至るならは、それは却て文化囲策に反することに
文化の夙俗化
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なる。文化国策は根本において文化の向上を目的とするものであるから。囲策に治ふといふ名目
に於て、この時代に要求される眞の思想と倫理を探求し建設するといふ文化人の責任の地乗があ
つてはならないのである。
今日の仝饅主義的風潮の中において、ただ時流に従つてをれば好いといつたやうな生活態度が
文化人の間にも醸成されてゐはしないであらうか。時世のままに動くといふことは自分を没却す
ることであるといふ意味において個人主義の反封である。それが直ちに仝懐主義を意味しないと
いふことは明かである。そのことは思想的には明瞭であるにも拘らず、生活態度としては知らず
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識らずそのやうな傾向が現在生じてゐはしないであらうか。そのやうな生活態度は仝盟主義的と
いふよりも寧ろ賓は封建的なものである。各人のうちに残存してゐる封建的気風が今日の仝饉主
義的風潮の中において自分をなくして時世に追随するといふ生活態度となつて現はれたものであ
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仝鰹主義は個人の責任回避といふことと同じであつてはならない。
人は杜曾と囲家に封して責
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任を有すると共に自己自身に封して責任を有してゐる。そして両者は本質的には一つに結び付く
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ものであつて自己自身に封して責任を感じないやうな者が眞に祀曾と闘家に封して責任を感ずる
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といふことは不可能である。
自己自身に封する責任は何よりも個人が眞に自分を生かすといふこ
とである。自分を生かすといふことは今日においても大切であり、その心構へが文化の基礎であ
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眞に自分を生かさうとする態度のないところには眞の文学も眞の思想も生ずることができ
最近における文化の風俗化は文化人の無責任に関係してゐる0それは彼等の自己自身に封する
無責任に根差し、けつきよく杜合と囲家の文化に封する責任の抱棄となつてゐる0そしてそれは
我が囲の文化人のうちに残存してゐる封建的気風とこの頃の仝憶主義的風潮との混渚から生じた
・弊害と見られ得るものである。
ところでかくの如き封建的なもの或ひは寧ろ東洋的封建的なものと西洋的なものとの混措から
生ずる弊害が今日の日本の文化人のモラルのうちに多く認められるといふことが一般に指摘され
ねばならぬであらう。それ
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あつて綜合でなく、徹底を故いた中途半端なものであり、ま
たそれは意識的な努力の結果でなく却て今日の我が囲の現貨の状況に相應する自然香生的なもの
である。
例へば、文化人の滑極性といはれるものについて考へてみよう0それは一方においては悪い意
文化の風俗化
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味での西洋的個人主義的なものである.そこには祀曾のことはともかく自分の生活だけは守らう
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といふ利己主義がある。しかし他方においては、そこには東洋的個人主義ともいふべき障虜思想
の侍統につながるものがある。この隠遁思想は封建的東洋の道徳として確かにすぐれたものを含
んでゐる。しかしそのすぐれたものは今日の文化人のうちには生かされてをらず、中途半端な隠
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遁思想が西洋流の利己主義と結び付いて文化人の滑極性といはれるものとなつてゐる。しかも他
方西洋の個人主義の眞にすぐれたところも生かされないで、その利己主義は仝憶に随順するとい
ふ東洋的道穂と混渚していはゆる大勢順應主義となつてゐるのである。文化の夙俗化もこれに関
係することが捗くないであらう。
今日のモラルの革新の方向について徹底した反省が要求されてゐるのである.
Jl」梅山」粁潔欄頂、当イY抱い、ノト”j。頂
ヽ∵ヽ