新興科学の旗のもとに


 創造的なる認識は事実としていつの時においても可能であるやうに見える。ある人が彼の天才的直観によつて洞察した事柄にして、その当時は埋れてゐたものが、数十年あるひは数百年の後、他の人によつて一般的真理として認識され、伝播されたこともある。例へはギリシアのひとりの哲学者によつて書き遺された断片がコペルニクスの眼に入つて、彼の地動説となつて現はれたが如きがそれである。創造的なる認識は孤立した認識であることが出来るやうである。
 これに反して批判的なる認識は特にただ一定の歴史的時代においてのみ可能である。それは、マルクスの言葉を用ゐれば、ただ社会の崩壊期と共に始まるのである。このとき社会は自己に内在する対立と矛盾とを暴露し始める。社会は危機に遭遇する。この「危機的なる」即ちクリチッシュなる時期に応じて、それを反映して、「批判的なる」即ちクリチッシュなる認識は生れる。マルクスは資本主義社会の崩壊過程の認識を特に批判と名づけてゐる。対立と矛盾との時代は、既にへ−ゲルの論理学が明かにしてゐるやうに、過渡的なるもの、過程的なるものの性格を優れて現はす。批判的なる認識は一般に存在の過程性、それの過渡的性質を閘明しようとする。
 このやうな時代にあつて批判的認識に対立するものの一般的特徴は、それが何等かの仕方でその時代を永遠化しようとするところに現はれる。かかる特徴を具へる理論を我々は独断的として批判的に対立せしめることが出来る。この独断論は、社会における対立が激成され矛盾が尖鋭化されるに応じて、いよいよ独断的となる。かくして独断論は反動思想−それは歴史の未来へ向つての運動を否定するといふ一般的意味において反動的である−として批判的認識に対抗するに到る。否、批判論と独断論とが相抗争するといふことが既に批判的、危機的なる時代のひとつの特徴である。
 現代の永遠性を立証しようとする、意識的または無意識なる意図を有する人々の多くは、奇怪にも歴史の尊重を説いてゐる。真実をいへばそれはひとつの心理的錯誤である。彼等によれば歴史とはもはや過ぎ去つてしまつたもの、いはゆる過去である。そこには変革や革命があつたかも知れない、けれどそれらも要するに過去のことである、我々のことではない。彼等は回顧的なる観察に耽ることによつて、まさに現在または未来の問題を見ようとはしないのである。そこには無限なる史料が堆積されてゐる。そして彼等は実証的研究、実証的研究と叫ぶ。だが歴史とは過ぎ去つたものではなくなほ在るもの、単に成つたもののみではなく却つて成りつつあるものである。
 歴史の本質は過程性にある。然るに最も優越なる意味における過程は、過去からの過程の結果であると同時に未来への過程の出発点である。現在である現在は過去を含むと共に未来をはらむとライプニツもいつてゐる。本来の歴史は「現代の歴史」である。現代を永遠としてでなく却つて歴史として把握することが歴史的研究の根本でなければならぬ。しかるに反動的なる歴史尊重論者は、現代が過去からの結果であることをもつて直ちにそれが完結、完成したものであるかの如く見なし、それを未来への過程として同時に理解しないのである。彼等こそまさに歴史の意義を否定する者である。新興科学は現代の運動を把握しようとする。かく運動を把握することによつてそれは未来への展望を有する理論を求める。
 学問上におけるいはゆる永遠の真理に対して疑ひ深いやうに、我々はいはゆる永遠の問題に対しても警戒する。今日学問をしようとする者は、彼がその学科に関する書物を開くとき、彼はそこに学問上の永遠の問題が陳列されてゐるのを見出す。これらの問題は既に古くから伝統され、この古き伝統の故をもつて聖なる威厳をおのづから粧ふことによつて我々を眩惑し、誘惑し、威圧するのがつねである。
 人々はかくの如き問題のみが真に学問的なる問題であり、それらについてみづからもまた論議することが真に学問的なる研究であると思惟する。彼等にとつて問題は研究に先立つて既に予め形作られて予へられてゐる。然しながら注意すべきことは、これら永遠なる問題が多くの場合もはや「問題性」を有すことなき問題であるといふことである。学問上の問題はすべて一定の歴史的時代においてその時代との必然的なる聯関において、従つて現実に問題性を有するものとして成立したものである、然るにそれが歴史に伝統されるに従つて、それはその成立の地盤から遊離させられ、かく遊離することによつていはゆる永遠性を得たものに外ならぬ。永遠性の獲得はこの場合問題性の喪失を意味する。もしさうでないならば、つねに同一であるのは問題の言葉のみであつて問題の内容ではないのである。従つてある種の問題については、それがもはや問題となり得ないといふことを明かにするのがその問題の正しき解答である。
 あたかも教学の歴史においてひとつの問題をある人が提出し、それを解かうとして永い間多くの者が苦心して無駄であつたとき、ひとり学者が現はれてその問題の解き得ないことを証明することによつて却つて数学を進歩せしめるのと同様である。
 哲学の歴史においてカントもまた従来の形而上学の問題、神の存在の澄明、その他の問題の解決の可能でないことを哲学的に証明することによつて、学問としての哲学の発達に貢献した。
 このやうにして我々は現実の存在と必然的なる聯関にある問題をみづから求めねはならぬ。然るに我々にとつてもつとも現実的なるものはいふまでもなく現代である。もちろんここにいふ現代は単なる現代ではなく、過去と未来とにつながる現代である。ところで我々の現代はまさに対立と矛盾とにもつとも充ちてゐるやうに見える。従つてそれはもつとも問題的である。もつとも問題的なる現代にあつては、問題そのもの、対立と矛盾そのものの発見こそがあたかも学問的なる仕事の主要事に属する。新興科学は伝統的な問題を承け継ぐことによつて自己の学問的威厳を粧はうとすることなく、却つてみづから現実の問題を摘発しようとする。