今日の国民倫理

 人生においては、進むことが大切であるやうに、退くことが大切である。如何に退くかといふことは、如何に進むかといふことよりも一層むづかしいともいへるであらう。
 たとへば戦争において、万一退却しなければならぬ場合には思ひ切つて一定の拠点まで一度に退却して、陣容を整へ、逆襲に転ずるやうにすべきであつて、敵に押されながら少しつつ退却するといふのは、損害が大きく立直りも容易でないといはれるが、人生においてもまた同様である。言ひ換へると、ヂリ貧が最も悪いのである。
 今日、国民の生活は次第に窮屈になつてゆく。あれも断念しなけれはならず、これも代用品で済まさなければならない。かやうな状態において外部から押されながら一寸延ばしに、我々の生活を縮小してゆくといふことは、正しい遣り方ではないであらう。それでは、生活の真の合理化はできない。むしろこの際思ひ切つて一定の拠点まで一度に生活を引き下げて考へるべきであつて、そこに立脚して初めて生活の新しい設計が可能であり、そしてそこから逆に少しづつでも積極性を獲得してゆくやうにするのが宜いのではないかと思ふ。さうして初めて、退くことが進むことになるのである。
 外部の事情が迫つてくるままに一寸延ばしに自分の生活を縮小してゆくといふやうな態度では毎日不平ばかり言つてゐなければならないであらう。今は誰もが覚悟を定めるといふのは、思ひ切つて一定拠点まで一度に引き下がつて自分の陣容を整へ逆襲に転じ得る積極的な態勢を作るといふことである。これを倫理的な言葉で言ひ表はすと、主体の確立といふことになる。かやうな主体の確立が現在、国民のすべてに要求されてゐる倫理である。
 主体を確立するためには、既にいつたやうに、思ひ切つて一定の拠点まで一度に引き下がらなければならない。これを可能にするものは各自の体験する危機意識である。この危機意識が国民のすべてに深く体験されなければならない。一寸延ばしにやつてゆくといふやうな、虫の好い考へ方が克服されなければならない。ヂリ貧が最も悪いことは政治においても、経済においても、日常生活においても同じである。