日本文化とデモクラシー
日本を初めて旅行する人は、その自然の変化に富むことに驚くであらう。この国の風景の美はこの自然の多様性に少からず依存してゐる。人間の心は彼等の生活環境に影響されるものであるとすれは、かくの如き国の住民の思想がいはは多神教polytheism的であるといふことは自然であるやうに思はれる。実際、日本を旅行する人は到る処において神社や俳閣を見るのであるが、その神社に祭られた神は甚だ種々であり、またその仏閣は同じやうに種々の宗派に属してゐる。そしてたいていの日本の家庭では、朝には神棚を拝し、夕には仏壇の前に脆くといつた風である。しかしこれを原始的な多神教と同一視することは正しくない。仏教は一般に認められる如く高等の世界宗教である。もちろんキリスト教を信仰してゐる者も少くない。しかも日本の仏教徒もキリスト教徒も同時にこの国の極めて根強い伝統であるところの天皇崇拝に生きてゐるのである。かくの如き一種独特な日本人の心情は、デモクラシーとか独裁主義とかいふ西洋的な範疇をもつて規定することができないであらう。
更に、自然に従ふといふことは日本人の生活における根本的な態度である。自然物を深く愛することは彼等の国民的な特徴であるが、その生活においても彼等は自然のままに生きることを求める。窮屈なこと、格式張つたこと、強制的なことは彼等の気質に合はない。彼等は規則づくめであるのを喜ばず、つねに寛いでゐたいのである。自然のままに生きることを好むといふ意味で彼等は自由を愛する国民である。その生活においてのみでなく、その文化においても、日本人は自然といふことを最も尚ぶのであつて、大袈裟なこと、装飾的なこと、余りに技巧的なこと、すべて不自然なことを嫌ふ。これは、同じ東洋でも、日本の文化と支那のそれとを比較してみると容易に理解し得ることである。自然の如く純粋で、自然の如く無理がないといふことは神道の根本思想でもある。その自然尊重の思想は一般にヒューマニズムの精神に通ずるものであり、日本文化の伝統のうちには一種独特のヒューマニズムが存在してゐる。しかるに一面そのやうに自然のままに生きることを欲する日本人は、他面最も礼儀を重んじる国民として知られてをり、その彼等がまた軍事的訓練の如きものに甚だ適する性質を有することは優秀なその軍隊の示すところである。かくの如き点から考へても、日本の国民的性格に合致するものは西洋的な型のデモクラシーでも独裁主義でもないことが理解されるであらう。
西洋におけるデモクラシーは個人主義的、自由主義的であり、それと結び附いたそのヒューマニズムは人間中心主義的anthropocentricであるが、日本文化を特色附けるその固有のヒューマニズムは一種独特の自然観に立脚してゐる。この自然は近代科学における普遍的で抽象的な法則の如きものでなく、多種多様な具体的な形態をそのうちに抱擁してそれぞれに活かすものである。それは個人の自然権natural
rightsの基礎とされるやうなものではない。日本人の社会観の根柢になつてゐるのはむしろ人間生活の自然形態としての家族である。単に各人の家族生活が重んじられるのみでなく、社会、国家が一つの大きな家族と考へられる。日本民族は極めて古く異民族を完全に同化し、閉ざされた地理的環境の中で平和な生活を営んできたといふことが、かやうな社会観の発達した一つの原因であるであらう。日本国民は皇室を中心とする一大家族であるといふのが変らない信念である。
明治以後の日本は西洋の種々の文化と共にそのデモクラシーの思想を受け入れ、個人主義、自由主義はこの国においても或る程度発達を見たが、しかしその伝統的な思想は決してこれがために滅ぼされることはなかつた。蓋し一方極めて進取的で、あらゆる新しいものを勇敢に摂取すると共に、他方極めて保守的で、最も旧いものをもよく維持するといふことは歴史の示す日本文化の顕著な特色である。言ふまでもなく一国の国民精神はそれぞれの時代においてその表現の仕方を異にする。今日の日本は、西洋のデモクラシー国からのみでなく独裁国からも多くを学び、その長所を探つてこれを日本文化の伝統の自覚の上に活かしつつ、独自の新しい文化を創造して世界文化に貢献することに努力してゐる。現在の日本は大いなる希望をもつてかかる産みの苦しみの中にあるのである。