死と教養とについて
   − 出陣する或る学徒に答ふ −

 ×君。お手紙有難う。君が入隊の日も近づき、ますます御健康の由、何よりも結構なことだ。先日お目にかかり、君の心構へを知つて、安心してゐる。あらためて申し上げることはない。全く君を信頼してゐる。ただ、元気で出掛け給へ、と申したい。しかし、君が書簡の中で私の意見を求めた問題について、沈黙することは失礼であると思はれるから、簡単にお答へする。
 ここで私は死の問題について哲学めいた議論を始めようとは考へない。死生は一だとか、死に切ることが真に生きることだとかといつた言葉は、君もすでに飽きるほど聞いたり読んだりしてゐることだらう。これらの言葉には、もちろん真理が含まれてゐる。だが問題は、その真理への通路がどこにあるかといふことである。その通路が見出されなけれは、一切の弁証は空語に等しい。
 死の問題は伝統の問題であると私は数年前に書いたことがあるが君は記憶してくれてゐるであらうか。人間は伝統において死ぬることができる。死の真理に到達するといふことは伝統の真理性を把握するといふことと同じである。死が宗教的な問題であるといふのも宗教が最も本質的に伝統的なものである故にほかならないと思ふ。
 死生は一だ、といふのは真理である。だがこれを弁証的に理解したからとて、死ねるものではない。死ぬるといふことは知識の問題でなく信念の問題であると言はれる。しからばどうして信じることができるのか。我々は伝統において信じるのである。伝統といふものは単に一般的な真理ではない。『歎異妙』の中に次のやうな言葉があるのを君は知つてゐる筈だ。
 「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつる業にてやはんべるらん、総じてもて存知せぎるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。」私はこの言葉のうちに伝統といふものの本質が顕はされてゐると思ふ。故に「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず、善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。」と言ふのである。
 伝統といふものは単なる習慣ではない。昔の武士の切腹は単なる習慣によるものではなく、彼等は武士の伝統を信じたが故に切腹することができたのである。人間は単なる習慣によつて死ねるものではない。習慣によつて死ねるのは植物や動物のことである。人間は伝統の中に死に、そして伝統の中に生きるのである。最も宗教的な死も、伝統において死ぬることである。死の問題は伝統の真理性の問題であり、従つて歴史的真理の問題にほかならない。歴史的真理は一般的抽象的なものでなく、つねに個別的具体的なものである。もし君が死の問題について何か躓くことがあるなら、伝統の問題に通路を求めて戴きたいと思ふ。
 今日、多くの日本人が戦場に出てゐる。彼等が死を恐れないのは決して、西洋人が言ふやうに本能によるのではない。彼等は靖国の伝統を信じ、この伝統の中に生き、この伝統の中に死ぬることができるのである。日本の兵隊の死生観は靖国の伝統にある。彼等の多数はいはゆる哲学を知らないし、いはゆる宗教を持たないであらう。彼等にとつて死ぬるといふことは靖国の伝統を継ぐことである。それは決して本能ではなくて伝統の問題であり、従つて教養の問題である。日本の軍隊の強さはかかる民族的教養の深さに根差してゐる。民族の文化といふものは単に哲学、科学、藝術等のいはゆる文化においてのみでなく、更に深くかかるところにおいて見なければならぬ。
 ×君。私はここで君が書簡の中で言つた教養の問題に解れることになつた。日本の知識階級はこれまでしばしば、日本的でないといつて非難されてきた。けれどもそれが単なる伝説に過ぎないことは、戦場において、すでに君たちの先輩が証明してきたことであり、またやがて君たち自身が立派に証明するであらう。私は民族的教養の深さを思ふ。知識人のうちにおいても日本的伝統は、民族的教養は、つねに生きてゐるのだ。そして実に、真の日本人であることなしに真の人間であることができるであらうか。真に日本的であることなしに真に世界的であることができるであらうか。
 君は文化科学を勉強してきた。そのさい君は多くのものを西洋から学んでゐるであらう。だが君はあの、知識階級は日本的でないといふやうな伝説を気にして、これに迷はされてはならない。我々は決して単に自分の気紛れから西洋の学問をして来たのではない。それが日本の発展にとつて必要であつたからなのである。大切なことは、自信を持つことだ。自分の学問が必ず国家の役に立つ、また役立たせてみせるといふ確信を持つことである。そして今日わが国の必要とするものが単に自然科学のみでないことは明かである。
 しかし知識人としてかやうな自信を持つことは、知識階級的特権意識を持つといふことであつてはならない。すべての者は、学者であり、藝術家であり、実業家である前に、人間であるといふ言葉があるが、すべての日本人は、知識人であり、農民であり、勤労者である前に、国民であると言ふことができる。といふのは、君は間もなく入隊するが、先づ何よりも、国民の一人として、一人の立派な兵隊になることを心掛けて戴きたい。それには知識階級的特殊意識を捨てることが必要であらうと思ふ。もちろん知識を捨てるのではなく、却つて一旦いはば知識人であることを否定して兵隊の一人になるといふことによつて、君の教養は真に生きてくることができるであらう。
 いま君たちが大量的に出陣するといふ事実の一つの意義は、知識人が国民の一人として真に国民の中に入つてゆくところにある。これによつて、従来わが国の知識階級について指摘された国民からの游離は克服されることになるであらう。そしてまたこれによつて、知識人の教養は国民的のものとなり、一時いはゆる国民文学論において求められたやうな国民的なあらゆる文化が生れてくる基礎が作られることになるであらう。
 ここに私は教養の性格の変化を考へるのであるが、これは更に別の方面からも考へることができる。今日の戦争は文化戦、科学戦であると言はれてゐるが、そのことを君たちは証明すべき任務を持つてゐる。そして実際、君たちの教養は、戦闘そのものにおいて、また治安工作において、あるひはいはゆる文化工作において、その力を発揮するものと信じる。 「知は力なり」といふのはベーコンの有名な言葉であるが、知識は一つの重要な戦力であるのだ。単に直接に軍事に関係する知識のみではなく、あらゆる種類の教養、軍事に極めて縁遠く見える教養にしても、戦力であることができる。文武一如と考へた昔の武士はこのことを理解したのであつて、文を徒らに武化するてと、単に実用化することを考へたのではない。
 しかしまた君たちの教養は現実の実践の中に引き出されることによつて新しい性格を得てくるに違いない。きびしい体験の中から君たちの学問は新しい問題、新しい見方、新しい解決を掴んでくるであらう。そしてこれらのことは将来の日本の教養の方向を決定する重要な要素になる。
 二三年前、今の青年は一つの世代をなしてゐないと言はれたことがあつた。従来たしかにさういふところが認められた。世代が形成されるには、限定された体験と限定された教養とがなければならぬ。今や青年学徒は出陣する。君たちは全く限定された体験を持ち、君たちの教養も新たに限定され、かくして君たちは個性を持つた一世代を形作ることになる。今や君たちは前代とは明確に区別される世代なのだ。この新しい世代に対する期待はまことに大きい。

  ×君。では、元気で出掛け給へ。