知識階級と伝統の問題


 どのやうな問題を考へるに当つても、その問題が提出されてゐる状況に就いて考へることが必要である。ここに状況と謂ふのは二重の意味のものである。第一にはその問題が投ぜられてゐる客観的情勢であり、第二にはその問題が与へられてゐる主観的状態である。これら二つの事柄は固より相関聯してをり、客観的情勢は主体的状態に影響し、逆に主体的状態は客観的情勢に作用する。そして問題そのものに就いて云へば、少くとも相対的には、或る問題は謂はば強制的に客観的情勢から課せられ、他の問題は謂はば創意的に主体的状態から発するといふやうな区別が認められる。しかしながら前の場合にもその時の主体的状態に就いて考へることが必要である如く、後の場合にもその時の客観的情勢に就いて考へることが大切である。かくして問題はつねに、相関聯する二重の意味における状況 ― これが真の意味における歴史的状況である ― の中で現実的に考察され、客観的に計量されると同時に主体的に評価されねばならぬ。問題そのものが抽象的であるか具体的であるかを議論することは無意味である。それ自体としては具体的であるかのやうに見える問題も、一定の歴史的状況においては却つて抽象的であつたり、反対に、それ自体としては抽象的であるかのやうに見える問題も、一定の歴史的状況においては却つて具体的であつたりすることがあるのである。一つの例を挙げれば、かのヒューマニズムの問題の如き、抽象的であると云はれたり、限定を要求されたりしたが、しかしそれは一見抽象的である故に却つて日本的現実のうちにおいては具体的な意味を有するのであつて、日本的現実といふ歴史的状況から離れてそれが抽象的であるとか無限定であるとかと云ふことはできない。抽象的具体的といふ言葉をもつて物を評価するのが自明のこととして慣例的になると共に、何が抽象的で何が具体的であるかに就いての反省が次第に失はれて来てはゐないであらうか。
 ところで最近我が国の知識階級の間においても民族と伝統の問題が著しく関心されるやうになつた。この問題はもちろん重要である。民族的なもの、伝統的なもの、日本的なものと云へば、直ちに反動であるとか復古主義であるとかと云ふ公式論に我々は与しないであらう。公式主義の流行そのものが実は我が国においては理論の伝統が乏しいことを語つてゐる。それは一つの日本的性格、即ち結論と実際的帰結とを性急に求めるといふ性格を示してゐるとさへ云へるであらう。民族の問題は謂はば精神の問題であるよりも身体の問題である。民族の問題を無視する公式論は、それ自身、精神のみあつて身体のあることを知らぬ一個の精神主義にほかならない。伝統主義者は精神主義者であると云つて彼等に反対する者は、かくの如き公式論の別の意味における精神主義にみづから陥るべきでない。いま民族と伝統の問題に対して正しい立場を見出すためには、先づこの問題が置かれてゐる歴史的状況を観察することが必要である。その際、客観的情勢に就いて考へねばならないことは固より、特に大切なのは主体的状態に就いて考へるといふことである。
 現代の客観的状況から見れば、民族と伝統を力説してゐるものは周知の如くファッシズムである。今日我が国において民族とか伝統とかが斯くも喧しく云はれるやうになつて来たことは、いづれにしてもファッシズムの影響に基いてゐる。言ひ換へれば、現在民族や伝統を強調することは何等「日本固有」のことでなく、従つてそのことが果して真に日本的伝統に忠実な所以であるかどうかといふことさへ問題である。民族主義伝統主義は現代の一つの世界的風潮であり、それ故に日本主義そのものにしても世界的に、世界史的に考察されねばならぬものである。ともかく今日かくの如き客観的情勢が存在する以上、民族とか伝統とかを特別に問題にする場合、その主観的意図が何処にあるにせよ、社会的にはファッシズム的に受取られ、ファッシズム的に作用する危険のあることは否定し得ないであらう。人間は社会的動物であるとすれば、自己の言動の統合的効果を勘定に入れて考へなければならぬ。ただ意志さへ善ければそれで善いといふ「心情道徳」は社会人の良心としては不十分であることを免れない。人間は政治的動物である限り、自己の言動の社会に及ぼす結果に対して責任を負はねばならず、それに就いて予め可能な範囲の考慮を払ふといふ、マックス・ウェーバーの所謂「責任道徳」が要求されてゐる。何事も人情的であることを貴ぶ我々のモラルの伝統は美しいものに相違ないが、そのために我々には責任道徳の思想が欠けてゐるとすれば、この伝統もそのまま継がるべきではないであらう。今日民族や伝統に就いて語らうとする者は、政治的勢力としてのファッシズムに対する責任道徳的問題を度外視してはならぬ。
 固より、ファッシズムが民族の伝統を重んずるといふことと、我々の民族の伝統そのもののうちにファッシズムになり得る傾向があるといふこととは、別の問題である。そこで先づファッシズムはそれ自身一個の外来思想に過ぎないといふことを述べ、次に日本民族の伝統を論じて、この伝統のうちにはファッシズムになり得る傾向が存在しないといふことを明かにし、かくしてこの国の民族的伝統の立場からファッシズムに反対することも可能である。一部の自由主義者がまさにかやうな態度をとつてゐる。それは今日の客観的情勢に対する民族的伝統の一つの評価の仕方を現はし、且つそれはファッシズムの最も重要視する民族的伝統そのものを武器として逆にファッシズムを撃たうとする点に特色がある。その方法はファッシズム批判にとつて一見甚だ有力である。しかし、その際日本的性格として挙げられる種々のこと、例へば、日本人は実際的であつてつねに中庸を執る故にファッシズムの如き極端な思想は受け入れられないとか、日本人は唯一つの神でなくて多くの神に仕へることをつねとする故にファッシズムの如き独裁主義は適しないとか、等々のことがたとひ真であるにしても、そしてそれが真である限り日本的性格に就いてのかかる考察は現在の政治的情勢の批判として有意義であることを失はないにしても、民族と伝統の問題に対するかくの如き態度には理論的にも実践的にも弱点がある。ひとはそのやうな説に反対して云ふであらう。ファッシストと見做される日本主義者自身でさへ、日本主義は独特のものであつてファッシズムとは異ると主張してゐるではないか、日本の民族的伝統のうちにファッシズムへの傾向が存しないと述べることは却つて日本主義者のために彼等が現実に為してゐることに対する好都合な弁解の方法或ひは遁辞を提供することになりはしないか。また仮に過去の日本にファッシズム的なものへの傾向が見出されないとしても、そのことは現在の日本にファッシズムが生じないといふ保護とはならない。どのやうな民族も歴史的に変化する、歴史の新しい条件のもとにおいては過去の美しい伝統も破壊される。ファッシズムは過去にあつたやうなものでなく、まさに現在のものである。現在の日本の現実のうちにファッシズム的本質のものが存在することは蔽ひ難い事実ではないか。現在が過去と単に連続的であるかのやうに考へるのは伝統主義の理論であり、その実践的帰結は復古主義である。しかもそれら自由主義者の民族性格論は消極的な復古主義にほかならず、彼等にとつて好ましからぬ現在の現実から眼を外らせて、過去のうちに慰めを求めようとするものである。単に過去から現在を見るといふのは悪しき歴史主義である。かやうな歴史主義は、その本質上観想的であつて実践的でないといふことと関聯して、現実が困難になればなるほど、現在から過去への逃避となつて現はれるのがつねである。一見ファッシズム批判的な今日の民族伝統論のうちにも現実回避の傾向が認められるであらう。我々は歴史に就いての単なる連続観に同意し得ないと共に、歴史は単に過去からでなく却つて現在から考へられねばならないと主張する。
 かやうにして右の見解はそのまま承認し難いにしても、それが現代の客観的情勢としてのファッシズムとは反対の関心から民族と伝統の問題を捉へてゐるといふことに注意しなければならぬ。そこで我々は我が国の知識階級が現在更に他の如何なる立場から同じ問題に関心してゐるかを検討してみよう。これはとりもなほさず今日の知識階級の主体的状態の分析である。

       二

 その一つは謂はば気分的なもの、雰囲気的なものである。現在のファッシズム的な政治的圧力にひしがれた人々は現実から退いて自分自身に還つて来る。ちやうど都会における闘ひの生活に破れ、傷つき、或ひは悔み、疲れ、或ひは絶望した人間が自分の故郷に還つて行くのと同様である。現実とは我々がそこへ出て来て闘つてゐる場所である。そこから人々が還つて行く故郷とは民族的なもの、伝統的なもの、日本的なものである。彼等がファッシズムを積極的に支持してゐると云ふことはできない。寧ろ種々の理由によつて闘ひ ― そのうちにはファッシズムそのものに対する闘ひさへも含まれてゐる ― から遁れて還つて来る時、彼等は謂はば全く自然的に、自分の故郷として、休息所として、民族的なもの、伝統的なものを見出すのである。現在の客観的情勢としての民族と伝統の高調は彼等がそこへ還つて行くのに好都合な条件を与へてゐる。そのうへ、この「還る」といふ気持は日本的伝統的なものである。それは東洋の「自然」の形而上学に基いた一つの根本的な生活感情である。かくの如く伝統的なものへ還つて行くといふことに対して理論的支持物となつてゐるのは、近頃の「教養」の思想である。ひとは云ふ、自国の伝統に就いての教養は我々の忘れてゐたものであり、少くともこれを補ふことは必要である、と。この教養論は直接には右と同様の知識階級の主体的状態の産物でないとしても、それが知識階級の間に拡つて行つた主なる理由が右の事情に有することは否定できない。教養の必要を説くことはそれ自体としては正しいにしてもこの教養論は現代の客観的政治的情勢と知識階級の主体的状態とを十分に考慮に入れてゐないといふ点において抽象的である。従つてこの教養論は方向を有しないといふことを特徴としてゐる。何が真の教養であるかは現在の行為の立場から決定されねばならぬ。その場合、これまで教養と見做されてゐたもの即ち伝統的教養を脱ぎ棄てるといふことが却つて真の教養であるといふこともあり得るであらう。ところで「還る」といふ一種の情感的な状態から教養を求める者が、おのづから民族的なもの、伝統的なものに就いての教養に向ふことは当然である。我々はこれを簡単に後退とは云はないであらう。東洋的な「還る」を直ちに後退として評価することは適切でない。しかしそれが前進でないといふことも確かである。それが多くの者にとつてかの一部の「転向者」における如く戦敗を記録するものでないにしても、また戦勝を意味するものでないことも明かである。「還る」は東洋的観照の根本的態度を現はすものであつて、それが後退であるにせよないにせよ、非実践的であるといふことだけは争はれない。更にそれはいづれにしても青年性の喪失を意味してゐる。その青年期に好んで西欧的なものを求めて進んで来た人々が、初老の頃ともなれば、伝統的なもの、日本的なものに興味を持ち始めるといふことは我が国において屡々観察される事実である。それが彼等の知的教展の停頓、活動性の減退の一つの徴候である場合は尠くないであらう。「還る」といふことは日本文化の伝統のうちに有する「老境」への道であり、その状態を現はしてゐる。かくして伝統的なものへの帰還は、単に実践の回避であるのみでなく、知識人にとつてはまた知的闘争からの撤退である。彼等はこの十余年間特にめざましく自己の生活の指導原理を尋ねて来た。或る時はそれを得てゐたし、或る時はそれを失つたにしても再び熱意をもつて探求し始めたし、また或る時はこの探求の「不安」そのもののうちにさへ留まらうといふ悲壮な決意を示した。然るに今や一方社会的に思想の自由が愈々狭められると共に、他方そのやうな新しい指導原理は得られさうにもないといふ東洋的な諦めが生じ、彼等は知的闘争から身を退いて故郷へ帰つて行く。その原因には更に、客観的に「言論の自由」が存在しないといふこととは別に、主体的に我が国においては「知性の自由」の伝統が乏しいといふことも考へられるであらう。思想上の闘ひも、闘ひである限り、「出て行く」といふ根本的性格をもつてゐる。闘ひを見棄てた者が還つて来る場所は故郷であり、それは民族と伝統である。
 既に述べた如く、民族的伝統に関心するといふことはそれ自体としては反動であるのでなく、場合によつては後退と呼ぶことさへ当つてゐない。しかし右の態度の根本的欠陥は、伝統に対する関係において自主性がなく、決意が含まれてゐないといふことである。伝統はつねに教養となり趣味となり得るにしても、教養や趣味は現在の行為、社会的実践竝びに文化的創造にとつて却つて妨害になるといふことも稀でない。伝統も行為の立場から、従つて現在の立場から捉へられなければならない。創造には固より伝統が必要である。同時に創造にはまた忘却が必要である。新しい世代が生れるといふことが文化の発展にとつて意味を有するのも、それが創造に必要な忘却を伴ふ故である。「還る」といふ東洋的態度及びそこに現はれる東洋的リアリズムも、例へば芭蕉の藝術にとつては積極的な意味があつたにしても、現在我々のうちにおいて同様の生産性をもつて復活し得るであらうか。
 ここに我々は日本民族の伝統に対する一つの他の態度が存在するのを見る。これは浪漫主義的歴史観に基礎をもつてゐる。この一派は絶えず「決意」と系譜」とに就いて語る。ところで彼等が好んで口にする系譜に就いて考へるならば、彼等の理論の系譜は決して日本的なものでなく、却つてドイツ的であり、ニーチェ、ゲオルグ及びその一党、即ち今日のナチスにおいて国民的英雄として崇拝されてゐる人々である。彼等はその理論の伝統を本居宣長その他の国学者に溯つてゐはするが、彼等の英雄的浪漫主義はなんら本居的でなく、却つて明かにニーチェ、ゲオルグ、グンドルフその他のものである。彼等もその外観ほど乃至は彼等自身が信ずるほど日本主義者であるのではない。彼等の復古精神はニーチェ的なアタヴィズム(先祖返り)の理念を追ふものである。彼等の関心するのは嘗てニーチェが為したやうに自己の英雄たちの(主として文学上の)系譜を求めるといふことである。ニーチェは彼の『ツァラツストラ』の成立時代に「私の先祖はヘラクレイトス、エムペドクレス、スピノザ、ゲーテである」と書いてゐるが、そこには一人のドイツ人に対して二人のギリシア人、そしてまた一人のユダヤ人が挙げられてゐるといふことは、現在のナチスのユダヤ人排斥に鑑みて注目すべきことである。日本の浪漫主義的伝統主義者も、万葉の詩人や芭蕉と共に、少くともニーチェやへルデルリンを自己の系譜のうちに加へることを拒み得ないであらう。このことは、言ひ換へれば、文化の系譜は決して一民族の内部に限られ得るものでなく、却つて世界的であるといふことを示してゐる。今日の日本の浪漫主義者はニーチェなどと同様、その構神的貴族主義の立場から、伝統を個々の「英雄」に求めてゐる。従つてそこでは「民衆」は問題でなく、民衆的文化のうちに民族的伝統を探らうとする者と相容れない立場にある。
 私はかくの如き日本浪曼派の運動に何等の意味を認めない者ではない。私はそれを何よりも古典決定の運動として評価しようと思ふ。実際、日本歴史の如何なる時代が古典的であるかは、従来多くは曖昧のままに残されてゐる。我々の歴史における古典的時代が決定されるのでなければ、我々の伝統に対する正確な関係は始まらないとも云ひ得るであらう。伝統はただ伝統である故をもつて価値があるのではない。その或るものは模範として尊重すべきであると共に、その或るものは寧ろ敵として拒否すべきである。観念の立場でなく行為の立場に立つ者は審判者として歴史に対しなければならない。その時、我々に最も近い時代が却つて我々に最も遠く、我々に最も遠い時代が却つて我々に最も近く、前者は否定され破壊さるべき伝統であり、後者は古典的として再生され復興さるべき伝統であるといふことがあり得るであらう。然るにもし歴史の発展が単に連続的であるとしたならば、我々が近い過去を越えて遠い過去に結び附くといふことは不可能である。そのことが可能であるためには、歴史の一つの時代と他の時代とが単に連続的でなく、却つて非連続的であるのでなければならぬ。もし今日の日本主義者に、あらゆる西洋的なものを排斥する一方、あらゆる日本的伝統的なものを尊重する風があるとすれば、それは歴史を単に連続的なものと見ることであり、かくては各々の時代が独自のものであるといふことも理解されず、各々の時代が有する個性を認めないといふことは真に歴史を尊重する所以であり得ないであらう。ところで過去の一定の時代を古典的として発見するものは現在の創造的精神であつて、懐古趣味の如きものではない。懐古趣味は歴史的相対主義である。西洋におけるルネサンスの創造的精神が古典的ギリシアを発見した。しかもこの場合ギリシア的伝統の復興は同時に他の伝統即ち中世的伝統の否定であつたといふことに注意しなければならぬ。いま日本文化の古典を万葉天平時代に求め、明治の精神は万葉天平時代の精神の復興であると見る説には或る洞察が含まれてゐると認めても好い。しかし明治の精神に復古的なところがあつたとしても、それは同時に封建的伝統に対して訣別を宣言したのであつた。伝統の否定なしには伝統の復興はあり得ない。そして真の復興は過去のものの其の儘の復活でなく、却つて新しいものの創造となつて現はれる。明治の精神が万葉天平の精神の復興であるとしても、復興されたのはその「文化」であるよりもその「精神」であり、文化の復興としては極めて局限されたものでなければならなかつた。文化の意味において古典的とされたのは寧ろ西欧的なものであつた。明治の精神は進んで西洋文化に接触し、これを摂取することによつて万葉天平の所謂「世界精神」(保田輿重郎氏)の復興であり得たのである。かくの如く考へ来るならば、我々のうちになほ最も力強く作用してゐる江戸文化の伝統に対して否定的な態度を取りつつ、一方では日本の古典美に帰らうとする古典的国粋主義と、他方では直接外国文学に救ひを求めようとする直訳的欧化主義とは、今日の日本において対蹠する別の精神でなく、全く同じ表裏の両面にほかならないと見る説(萩原朔太郎氏)にも、或る詩人的直観力を認め得るであらう。そこに示された現在の日本文化に対する激しい批判の精神に対して我々は同感することができる。しかし二つの主義が主観的にその「精神」において同じであるとしても、客観的に「文化」を生産してゆく立場において我々はいづれの方向に従ふべきであらうか。この場合、東西文化の融合もしくは統一の理念が今日もはや「季節はづれ」となつてゐるとすれば、日本的なものの強調は排外主義にならねばならぬであらうか。私はこの一派の人々が決定的に排外主義者であるとは信じ難い。事実は寧ろ、彼等の浪漫的な主観主義に相応して、彼等にとつて問題であるのはつねに精神であり、現代の文化が客観的なものとして如何なる形式において形成されてゆかねばならぬかに就いては確乎たる方針があるわけではないのではなからうか。彼等の立場は根本において歴史的審美主義として特徴附けられ得るものである。歴史的審美主義は本質的に観想的でありまた懐古的である。彼等の古典に対する関係は、実際、かのルネサンスにおけるヒューマニストのギリシア古典に対する関係ではなく、却つてへルデルリンの古典的ギリシアに対する関係に類似してゐる。そこからしてまた、彼等に先立つて万葉の古典性を評価した明治の文人が万葉に対する関係と今日の彼等が古典的万葉に対する関係との差異が理解されるであらう。もしも彼等にしてへルデルリンの生涯の悲劇的結末に或る歴史的象徴的意味を認めることを拒まないならば、彼等は先づヘルデルリンとゲーテとの精神的態度の相違から学ぶことを怠つてはならない筈である。


       三

 ここに一層穏和な、それ故に一見尤もらしい見解が現はれてゐる。即ち云ふ、今日の知識階級における日本的なもの、伝統的なものに対する関心は一個の「平衡運動」(谷川徹三氏)にほかならない、と。蓋し我が国のインテリゲンチャは従来あまりに甚だしく西洋的なものを追ひ求めて来たのであるが、今やかかる行き過ぎに対する平衡運動として日本的なもの、伝統的なものが顧みられるやうになつたと云ふのである。ところでこの見解は歴史理論としては常識的な均衡論にほかならず、弁証法的な見方に対立するものであるといふことが注意されねばならぬ。社会の危機、文化の危機が間断なく叫ばれてゐる今日、かくの如き均衡論は如何なる意味を有し得るであらうか。それは一種の自由主義的心情から発したものであることは疑はれないにしても、かやうな自由主義は現実においては不可能にされてゐる。日本主義者は現在、あらゆる西洋的なものを排斥し、手当り次第の日本的なものをこれに対せしめようとしてゐるのである。明治大正時代の社会の安定期においては東西文化の綜合といふ、ともかく積極的な、世界史的な使命を負はされた理念が掲げられたのであるが、今や我々は文化の均衡といふが如き消極的な思想をもつて満足しなければならないのであらうか。この均衡論は東西文化の綜合的統一といふ理念からの数歩退却である。更に重要なことは、均衡論はなんら文化生産の立場となり得るものでなく、たかだか趣味と「教養」の立場を現はし得るに過ぎないといふことである。今日の知識階級における日本的なもの、伝統的なものに対する関心がかくの如き教養における均衡運動を意味するとすれば、我々はここにもまた彼等が現在の政治竝びに文化的現実に対して如何に消極的になつて来たかを示すに足る事実を見ることができる。
 我々は伝統主義者の歴史に就いての単なる連続観を排斥した。西洋文化の連続性に対して非連続性を日本文化の特質として挙げる者さへ存在する。固より歴史は単に非連続的なものでない。民族的伝統は我々が勝手に着けたり脱いだりすることのできる外套の如きものではない。今日ひとは好んで明治以後における日本の欧化主義を非難する。しかしながら、あらゆる現実的なものの必然の運命として、西洋文化の輸入にも弊害が伴つたとはいへ、まさにこれによつてのみ日本が世界の強国にまで発展し得たといふことは明かな事実であるのみでなく、他方その所謂欧化主義そのもののうちにも日本的性格がなほ認められ得るのである。西洋文化の移植によつて日本人が西洋人になつてしまつたとは考へられない、既に西洋文化の移植の仕方のうちにも日本的性格が現はれてゐるであらう。西洋の近代的文化によつて駆逐されねばならなかつたのは封建的なものである限りの日本的なものであつた。これは当然のことであつて、封建的なものは日本文化の発展にとつても制限とならねばならぬものである。我々は日本文化の特殊性を疑はないであらう。ただ我々が不安に感ずるのは、日本的と考へられるものが単に封建的なものに過ぎぬことがないかといふことである。この不安を除く必要からしても、我々は絶えず我々の文化を西洋文化と対質せしめなければならない。それは西洋文化を単に模倣するためにでなく、我々のうちに残存せる封建的なものを清算するために要求されるのである。ヒューマニズムが唱へられる一つの理由もそこにある。
 さて民族といふのは謂はば身体の如きものである。我々の身体は社会的身体としての民族の分身と見られることができる。民族は主体的身体的なものとしてパトス的なものである。いまもし民族と文化とを区別して考へるならば、民族の身体に対する文化はその精神の意味を、従つてまたパトスに対するロゴスの意味を有すると見られることができる。民族は身体としての物質の意味を有し、物質はギリシアの哲学者が考へたやうに可能性の意味を有するであらう。可能性としての身体は精神によつて限定されて現実性に達する。しかも精神と身体とは単に連続的なものでなく、相対立するものとして非連続的である限り、一民族は々の精神を他の民族の文化から受け取ることも可能である。このことが可能であるのは各々の民族が互に異るものでありながら同時に人類としての統一を有するためである。かやうにして明治時代の日本人は西洋文化を移植して自国の文化を発展させることができた。かくして作られた文化と民族との間に何等かの乖離が存在するやうに感ぜられるとすれば、それは西洋文化がなほ身体化され、パトス化されてゐないことを意味してゐる。然るにそのことは我が国における西洋文化の伝統が日なほ浅く、未だ十分に伝統となつてゐないといふことである。この場合伝統とは身体的になつた文化、謂はばパトスのうちに沈んだロゴスである。西洋文化の輸入以来、なんら日本独特のものが生じてゐないとしても、永久にさうであるのほかないといふ運命にあると考へることはできぬ。我々の任務は今なほ借衣の感ある西洋文化を身体化することであり、それが身体化されて真の伝統となる時、その基礎の上に日本独特のものが生れて来るであらう。民族とは遠い昔にあるのでなく、我々の身体が、我々の現在が民族である。しかも民族は、身体的と云つても単に生物学的なものでなく、却つて歴史的身体であり、歴史において形成されたものとして伝統的なものをもつてゐる。日本的と云はれる伝統は固より単に身体的なものでなく、そのうちにロゴス的なものを含んでゐる。進んで考へるならば、日本的伝統と云はれるものも支那文化や印度文化を身体化することによつて作られたものである。伝統は謂はば身体或ひはパトスのうちに沈んだ精神或ひはロゴスであり、そこからして伝統は身体的なもの、民族的なものと一緒に見られ、かかるものとしての伝統とロゴス的なものとしての文化との乖離も考へられるのである。実際は支那や印度の文化を吸収してゐる日本の伝統が何か「日本固有」のもの、純粋に民族的なものと考へられるといふこと、かかる民族的なものと西洋文化とが永久に乖離すべき運命にあるかの如く考へられるといふこと、などの理由はそこにある。しかしながら民族も歴史的に形成されたものであるやうに、伝統はもと身体と精神との、パトスとロゴスとの統一として弁証法的なものであり、弁証法的に発展してゆくものである。身体的なもの、パトス的なものとしての伝統は新しい文化によつて否定されて更に新しい伝統が作られる。すべて文化はパトスが自己を否定し、ロゴスにおいて却つて自己を肯定する時に生れるのである。民族の自己否定を媒介とすることなしには真の民族的文化も作られないであらう。
 我々は日本人が日本的伝統に就いて自覚することの必要を決して否定する者ではない。自覚は如何なる場合においても大切である。しかしながら伝統の自覚は同時に伝統の批判を含まなければならぬ。それのみでなく、今日我々にとつて特に必要なことは、日本的なものの特殊性を知ることであるよりも日本的なものの世界性を求めることでなければならぬ。誰も日本的なものの特殊性を否認しはしないであらう。問題は日本的なものの世界性を求めることであり、このことこそ従来最も欠けてゐたものである。徳川幕府の鎖国主義のもとにあつた日本においては、日本文化の世界性に就いて反省することもそれほど必要でなかつたであらう。然るに今日、日本が、強国日本として世界史の舞台に登場した時、我々にとつて問題となるのは何よりも我々の文化の世界性である。それは単に懐古的な態度においてでなく、寧ろ新しい文化を生産する立場において問題になつて来ることである。且つまたそれは世界史の舞台へ登場した日本において初めて現実的に可能となつたことであつて、この自覚こそ我々にとつて最も必要なものである。古代ギリシアの民族的文化は同時に世界的文化となつた。そのことが単に彼等の民族の優秀性に基くものでないといふことは近代ギリシアの状態を見れば明瞭であらう。古代ギリシアの文化が世界的になり得たのは、それが当時の世界の交通の中心に位し、バビロニア、エジプト、フェニキア、ペルシア、等の文化と絶えず接解したためである。然るにギリシア文化の正統の後継者と自称するナチス・ドイツにおいては、かかる歴史的事実を無視して、人種主義が唱へられ、一切のユダヤ的なものが排斥されてゐる。今日我々に必要なのは世界史の認識であり、世界史的考察に基いて日本文化の問題を考へてゆかねはならぬ。