危機の把握



 最近しきりに危機といふ言葉が使はれるやうになつた。それはもちろん国際関係についていはれてゐるのである。危機はたしかに存在してゐる。問題は、その危機が真に危機として把握されるといふことである。
 考へてみると、危機は今日に始まつたのではない。戦争そのものはつねに一つの民族、一つの国家にとつて危機を意味してゐる。そして日本は既に四年以上も支那と戦つてゐるのである。しかるにこれまで果して国民の間に危機の意識が十分に存在したであらうか。支那との戦争を「事変」と名附けた人々は、今にして思へば、一面甚だ賢明であつたと共に、他面はからざる過誤を犯したともいへるであらう。即ちそれは、支那との戦争が普通の戦争とは目的を異にするものであることを示した点においては、賢明であつた。しかし他方それは、たとひ相手が東亜の一民族であるにせよ、ともかく戦争しつつある日本の国民に、戦争はつねに危機であるといふ意識を十分に滲透させることができなかつた点においては、思はぬ不用意であつたともいへるであらう。言葉は心理的に微妙な作用をするものである。もちろん、それは単に言葉の問題でなく、根本においては現実の政治的問題である。この問題がどこにあるかは、事変の発瑞からの経過を反省してみれば容易に理解し得るであらう。いづれにしても、従来国民の間に危機の意識が不十分乃至不透明であつたといふことは事実であるやうに思はれる。そのために、いはゆる敵性国家の問題についても何か甘い考へ方があつたのではなからうか。またそのために、現在の段階においてさへ、知らず識らず甘い考へ方に陥り易い危険があるのである。かくて今日「臨戦態勢」とか「決戦態勢」とかいふ言葉が現はれるに至つたのは当然のことである。危機意識の昂揚が大切である。
 一般的に見ると、国民の間に危機の意識が乏しいといふのは、従来の日本の国の歴史が幸福であつたといふことにも依るであらう。日本はこれまで仕合にも大きな悲劇を経験することなしに順調に発展を遂げてきた。これはまことに幸福なことであつた。しかしそのために、いつのまにか、すべてのものごとを甘く見るといふ習慣が作られてゐるやうに思はれる。もちろん、そこには我々の民族に一種特有ともいひ得る善い意味における楽天的思想がある。これは大切である。我々は如何なる場合においても悲観してはならぬ。希望はつねに最後まで持ち続けられなければならない。危機について語ることは悲観主義とは全く違つてゐる。両者の差異を認識することが肝要である。しかるに従来あまりに幸福であつた国民の間には、危機を力説すると、単なる悲観主義であるかのやうに考へるといふ風がないであらうか。そこに危機の本質を見誤らせる危険が存在してゐる。キリスト教における終末観的思想の例を持ち出すまでもなく、真の希望は真の危機の把握から出てくるのである。真に危機を感じることもなく真の希望をもつこともないといふ状態こそ、今の日本にとつて最も危険な状態であるといはねばならぬ。
 既にほぼ十年前から我が国においても危機の思想が紹介され、一時は流行しさへした。不安の文学とか不安の哲学とかいはれたものがそれである。ひとはシェストフ、キェルケゴール、或ひはハイデッガーやヤスペルスの哲学、或ひはバルトの危機神学、等々を想起するであらう。しかしそれらの思想が流行を極めた当時においてさへ、真に危機を身において体験した者が果して幾人あつたであらうか。その影響が今日どこに見られるであらうか。それは一時の流行に過ぎなかつたやうにさへ思はれる。もし何物かが残つたとすれば、それは限定することのできない一種の虚無主義であるやうに感じられる。しかるに真の危機の自覚は、悲観主義でないやうに虚無主義でもないのである。当時危機思想を一つの流行に終らせたのと同じ心理が、今日戦争の現段階においても存在するといふことがないであらうか。悲観主義や虚無主義から区別されて、真の危機の自覚に達するといふことは、危機の力説されてゐる現在、大切なことである。
 危機はつねに限定されたものである。哲学者はこれを「瞬間」といふ言葉で現はしてゐる。無限定な危機といふものはあり得ない。しかるに虚無主義は無限定であるのが普通である。限定されないものが虚無といはれる。危機の瞬間性は決断を要求する。危機の意識にとつて重要なのは「時」である。重大な問題の解決を一寸延ばしに延ばしてゆくといふやうな態度は危機意識の欠乏から来るのである。危機が瞬間的なもの、限定されたものであるといふことは、それが行為的現実にかかはるものであることを意味してゐる。行為はつねに限定されたものに向つてゐる。一般的な行為といふものはあり得ない。一般的な可能性の中を動くものは行為ではなく、却つて認識である。それ故に行為の立場から游離して抽象的な空気の中で思惟する者は虚無主義に陥り易いであらう。この危険は特に知識人の間に存在するのであつて、それは重大な問題の解決を一寸延ばしに延ばしてゆく政治家の危険と同様、危機の真の把握がないところから来るのである。危機の意識は人々を行為に駆り立てずにはおかないものである。
 しかしながら危機思想は単なる行動主義ではない。危機にあたつて従らに行動的であるといふことは、単なる焦躁感、或ひは更に絶望感にもとづくのであつて、危機の正しい把握ではない。
 いはゆる行動主義の根柢に絶望感が、更に虚無主義が無意識的に潜んでゐることが稀でないことに注意し、みづから反省することが大切である。現在の危険は、一方行為的現実から游離して一般的な可能性の思惟のうちに彷徨することであると共に、他方一切の理論を拗棄して単なる行動主義におもむくことである。それらは共に虚無主義にほかならない。前者がいはば自覚的な虚無主義であるのに対し、後者はいはば無自覚的な虚無主義である。虚無的行動主義が一切の理論を抛棄するのに反し、真の危機意識は却つて理論的探究の根源である。すべての理論は危機の意識から生れるといふことができるであらう。宗教はもとより、哲学も、更に科学でさへもが、人間と自然との対立から、従つて一般的にいふと一つの危機意識から生れたと見ることができる。危機は我々を退引ならず現実に面接させる。危機の意識は我々を現実に接近させることによつて現実の認識を可能にする。物に近く立ち停まつて問ひ続けることなしに如何なる真の認識が可能であらうか。現実から逃避するといふのは虚無主義のことであつて、真の危機の把握ではない。あらゆる動物のうち人間のみが知識を有するといふことは、他の面から考へると、ひとり人間のみが危機の意識を有するといふことである。危機意識と知性とが相反するものであるかのやうにいふ行動主義は真の行為の立場を理解しないものであり、虚無主義にほかならない。危機は哲学的に「瞬間」として規定されるが、かやうな瞬間はもとより時計で量られる一分、一秒といふやうな瞬間ではない。危機的乃至瞬間的把握は、単なる客観的把握に対して主体的把握を意味してゐる。世界史の動きは人間の一生によつて考へることはできない。ヘーゲルがいつたやうに、世界史は急がない、それは十分に時間をもつてゐる。世界史の動きを我々の一生によつて考へようとするところから無駄な焦躁が生じてくる。しかし人間はその世界史の中に入つてゐる。世界史は急がないからといつて傍観してゐることは許されない。歴史は人間の作るものであり、それは瞬間から瞬間へ動いてゆくのである。行為的現実はかやうな現実である。ここにおいて人間は実践的であると共に理論的でなければならない。真の実践には認識が必要である。とりわけその実践の関係する範囲が広ければ広いほど認識が必要になつてくる。今日の戦争はもはや制限戦争ではなくて絶対戦争であるといはれるが、かかる戦争においては科学的な認識が欠くべからざるものである。個々の戦闘でさへもが今日においては科学的に測定され得る性質のものになつてゐるといひ得るであらう。昔の戦争に見られたやうな浪漫主義は現代の科学的戦争からはもはや消え去りつつあることに注意しなければならない。戦争の危機に対する我々の覚悟も科学的になるといふことが必要である。
 これまで危機意識の滲透が十分でなかつたところから、すべての物の考へ方に甘い点が多かつた。危機の把握はその甘さを去つて厳しさを得ることである。科学はかやうな厳しさをもつてゐる。あらゆる物を一種非情な仕方で見てゆくのが科学である。科学的精神の厳しさといふものが理解されなければならない。今日、科学するこころといふものに何か甘い考へ方が忍び込まないやうに注意することが肝要である。自分の愛する子供の病気ですら一種非情な厳しさをもつて診察するのが科学的な医者であり、それによつて危機にある生命も救はれることができる。この厳しさは虚無主義とは全く性質を異にしてゐる。この厳しさの根柢には真に主体的な積極性がある。自然を有情的に、人間的に見てゆく態度からではなく、却つてどこまでも非情的に、客観的に見てゆく態度から近代科学は生れたのであるが、その根柢に存在するのは自然に働きかけることによつて自己を生かさうとする人間の行為的な積極性である。知性を消極的なものと考へることは間違つてゐる。問題は、一般的な可能性の抽象的な客気の中で思惟することに陥らないで、危機の示すやうな行為的現実を媒介にして一般的な認識に達することである。科学の厳しさの根柢に主体的な積極性のあることを理解する者は、またその根柢に深い愛の存在することを理解するであらう。愛のない厳しさは虚無主義に通じてゐる。愛のない危機意識は絶望感に等しいであらう。善い政治家は一人一人の国民を大切にする。善い将軍は一人一人の兵卒を大切にすることを知つてゐる。人間を粗末にするやうでは戦争にも勝つことができない。真の科学者もまた物を大切にするであらう。ただ頭の中で考へるといふのでなく、物そのものについて実証的に研究するといふことを方法とする近代科学は、個々の物を尊重する精神に立つてゐるといふことができる。この愛はいはゆる甘い見方ではない。真理の愛の厳しさが理解されねばならぬ。危機の把握は愛の厳しさの理解である。危機から虚無主義に陥ることを救ふものは祖国に対する愛、また人類に対する愛である。このやうな愛、更にまた個々の人間に対する愛がないならば、戦争のもつてゐる厳しさといふものも虚無主義につらなるであらう。虚無主義から出た行動主義は、知性の抛棄であると同様、真の英雄主義ではない。真の英雄的行為は虚無を克服する愛と認識の上に立つて初めて可能である。
 これまでいはば習慣的になつてゐた甘い見方が危機の把握にもとづいて清算さるべき時である。危機の正しい把握によつて、周囲の事情に従らに引廻はされることのない主体の確立ができる。危機意識をもたぬ甘い見方から知らず識らず深みに陥つてゆくヂリ貧といふものが最も恐しいのである。危機意識は単純な楽観主義でも悲観主義でもない。甘い見方による楽観主義は最も危険なヂリ貧に導き易い。危機の正しい把握の中からこそ真の希望は生れてくる。真の希望といふものは甘い見方から来る希望的観測の如きものではないのである。