新しいコスモポリタン

 ナチスの文化弾圧はあまりにも有名である。それは一つの世界史的事件であると云ふことができるかも知れない。我々は機会ある毎に、この人もドイツから迫はれてゐる、あの人ももはや大学にゐないといふことを見出して、ただ驚くはかりである。この十数年来日本で名前の知られてゐたドイツの哲学者で現在なほ母国の大学で活躍してゐる者はどれほどあるであらうか。
 歴史を繙くと、殉教者と称せられるものがある。日本の歴史には比較的少いにしても、西洋の歴史にはそれがなかなか多いのである。
 然るに今日その西洋において、あのナチスから迫害を受けた人々の中には殉教者といふべき種類の人間が見当らないやうである。彼等は母国を離れて、或ひはアメリカヘ、或ひはイギリスやフランスヘ、或ひは北欧へ行つた。彼等は現代のコスモポリタンである。我々は彼等において殉教者でなく、寧ろ新しいコスモポリタンを見るのである。彼等の中には、例へはトーマス・マンの如く、母国に対して抗議を続けてゐる者もなくはない。しかしそれらの人々においてさへ感ぜられるのは、殉教者の意志であるよりもコスモポリタンの感情である。誰が祖国を愛しないであらう。如何なるユスモポリタンが母国を懐しまないであらう。それは人間の自然の感情である。この人間的自然的関係を離れて政治的歴史的関係において見るとき、彼等は結局コスモポリタンである。
 然るにかやうなコスモポリタンは単に彼等のみではない。現在ドイツに留まつてゐる知識人の中にも同様のコスモポリタンは多いのである。一時ははナチスの代表的哲学であるかのやうに騒がれたハイデッガーの如きも、ヘルダーリンに関する彼の最近の論文を読でみると、彼もまた新しいコスモポリタンの一人であることが感ぜられる。沈黙してゐるコスモポリタンに至つては更に多いであらう。そしてそれはドイツのみのことではない。ロマン・ローランも、ジイドも、ヴァレリイでさへ、或る意味ではコスモポリタンであると云ふことができるであらう。彼等も現代の新しいコスモポリタンである。
 コスモポリタンとは何であるか。コスモポリタンとは政治への信頼を失つた人間のことである。世界史上における代表的なコスモポリタン、古代的世界の末期に現はれたストアの哲学者たちがすでにさうであつた。彼等の世界主義(コスモポリタニズム)は政治への信頼の喪失から生れてゐる。新しいコスモポリタンの政治に対する不信はいはば普遍的である。彼等は現代の政治に対して懐疑的である、しかも彼等自身何等かの政治のシステムを持つてゐるわけではない。一定の政治のシステムに対して絶対的な信仰を抱いてゐる者、コムミュニストの如きは屡々殉教者のタイプを示してゐる。彼等新しいコスモポリタンは自由主義者と呼はれるのがつねである。しかし彼等の自由主義は政治のシステムであるのではない。彼等を文化主義者と名附けることも正しくない、なぜなら、もし文化主義が政治主義に対立するものであるならは、かやうに政治主義に対立するといふ理由で文化主義は一つの政治のシステムであるのみでなく、それは一定の政治のシステム ― 例へばいはゆる「文化国家」の理念 ― と容易に結び附き得るであらう。彼等にも何等かの政治的幻想があるに相違ない。彼等は政治に対して無関心であるどころか、つねに最大の関心を寄せてゐるのである。しかも彼等は、自己の抱く政治的幻想乃至理想が恐らく決して現実の政治的勢力となり得ないことを自覚してゐる点において、政治への信頼をもつてゐない。そのうへ彼等は、誰もが政治に関心せねはならぬやうな状態をもつて人類の大きな不幸と考へてゐるであらう。
 もちろん彼等のコスモポリタニズムをいはゆる天才の孤独と理解して片附けることができない。なぜなら、かやうなコスモポリタニズムは若干のすぐれた藝術家、思想家にのみ属するものでなく、今日の世界のインテリゲンチャに多かれ少かれ共通するものであるから。我々は同様のコスモポリタンを日本のインテリゲンチャのうちにも見出し得たのである。
 日本のインテリゲンチャはコスモポリタンであるといふ非難はすでに久しく日程に上つてゐる。そして人々は、彼等のコスモポリタニズムが彼等に特有な欧化主義に、彼等の無思慮な西洋崇拝に基くもののやうに云つて、彼等を非難した。しかしこの見方は浅薄である。なぜなら、かやうなコスモポリタニズムは単に我が国においてのみでなく、西洋においても見出されるものであるから。このコスモポリタニズムの本質は、すでに云つたやうに、政治に対する普遍的な懐疑であり、日本のインテリゲンチャにおけるコスモポリタニズムも本質においてこれ以外のものではなかつたのである。彼等はまさにコスモポリタンとして単なる欧化主義者、単なる西洋崇拝に止まつてゐない筈である。彼等は少くとも西洋のものと同等に日本のものを好んでゐたであらう。また我々は彼等の人間的自然的な感情がまことに日本的であるといふこと、彼等が祖国に対してまことに人間的自然的な愛を抱いてゐるといふことを疑はない。しかし問題はそこにあるのではない。
 現代のコスモポリタニズムの世界史的意義について考へてみることは興味のある、そして恐らく重要な問題である。しかし我々はここでは特に日本のインテリゲンチャにおけるコスモポリタニズムについて注意を喚起するに止めよう。それが本質においては西洋崇拝とも祖国愛とも関係のないことについてはすでに述べた。それは根本的には政治への信頼の喪失を意味してゐる。ところで今回の支那事変は彼等をしてそのコスモポリタニズムを克服せしめたであらうか。言ひ換へれば、彼等はこの事変を機会として政治への信頼を回復したであらうか。我々の問うてゐるのは単に、彼等が例へば現政府の政治を信頼してゐるかどうかといふやうなことではない。彼等が一般に政治への信頼を回復したかどうかといふこと、従つて例へば、たとひ現政府の政治には反対するにしても他の政治には信頼し来るやうになつたかどうか、或ひは自ら進んで一定の政治のシステムを持ち得るやうになつたかどうかといふことである。しかもまた注意すべきことは、政治への信頼はつねにただ現実の一定の政治の方向乃至システムに対して決定的に同意するか反対するかにおいて現はれるといふことである。もし彼等のコスモポリタニズムが如何なる政治によつても救はれないものであるとすれは、人類の歴史は不幸な段階に入りつつあると云へないであらうか。それとも彼等は遂に歴史の落伍者に過ぎないのであらうか。いづれにしても、我々はこのコスモポリタニズムの行方に現代の政治そのものの行方についての一つの指標を見出すことができるであらう。
 この頃、戦争と文化の問題について色々論ぜられてゐる。しかし実際は、戦争と文化といふ問題はむしろ一義的な問題でしかない。本格的な問題は却つてつねに「戦後の文化」の問題であり、文化人がこの際最も真剣に考へておかねばならぬ問題はそこにある。そしてもし戦争と文化といふ問題が何等か困難な問題であるとすれば、それは戦争は政治の一つの延長であるといふ意味において、現在政治と文化といふかねての問題が最も鋭く提出されてゐるといふことのためである。そしてこの問題は、政治に対する信頼の喪失から生じてゐたコスモポリタニズムが今日このとき如何に処理されるかといふことにおいて謂はば一つの極限的な問題に達するのである。