コラム 『銃 眼』


      日本とドイツ精神

 近年、日本精神といふことが頻にいはれ、その特殊性について喧しく論ぜられ、西洋思想の排斥さへも唱へられてゐるに拘らず、日本精神とドイツ精神との差異は余り語られてゐないやうである。むしろ今日行はれてゐるのはドイツの模倣に過ぎぬものが多いと批評されるほどである。かやうなことはいはゆる日本精神が甚だ政治的なものであることを考へさせる。
 もし政治が国民性を基礎にしてゆかねばならぬとすれは、日本精神とドイツ精神との差異を知ることは重要でなければならぬ。ドイツ精神の上に立つといふナチス的政治が果して我が国民性に適するかどうかが問題である。
 ナチズムは何でも規格的であることを好むドイツ人の性質に基くといはれてゐる。これも一つの説明である。しかし私は、もつと根本的なものはドイツ人における悲劇的精神ではないかと思ふ。歴史は悲劇であるといふ思想は全くドイツ的である。この頃のナチス的書物を見てもこのやうな悲劇の観念、そして運命の観念が到る処に見出されまた感ぜられる。古代ギリシアと音楽― ドイツ人の愛する二つのもの ― の精神を悲劇の精神と考へたニーチェにナチス的思想の源泉が求められるのも偶然でない。
 しかるに日本人に欠けてゐるのはまさに此の悲劇の精神である。日本的といはれる心中の如きも悲劇的ではない。日本人にも一種の運命観はあるが、悲劇的ではない。日本精神とドイツ精神とがこのやうに異なつてゐるとすれは、日本においてナチス的独裁政治は可能であらうか。
 日本と支那とは提携してゆかねばならない、それだのに今両国は血腥い戦争をしてゐる。これほど大きな悲劇はない。支那事変は日本の経験したいづれの戦争よりも重大であり、それが国民生活に及ぼす帰結も極めて深刻であるに相違ない。しかし日本人は今真に悲劇を感じてゐるであらうか。誤解のないやうに云つておかねばならぬが、悲劇はいはゆる悲観と同じでない。ナチス的独裁政治は果して日本の国民性に適するであらうか。



(五月十七日 年不詳)