悲劇の問題



 先年ドイツから派遣されて日本へ来てゐたシュプランガーの「如何にして国民的性格を把握するか」といふ論文の最後に次のやうに書いてある。
 「民族の最も豊かな姿は偉大な悲劇的文学のうちに現はれ、他のどこにも同様の純粋さと深さにおいて現はれない。或る民族がもはや何等偉大な悲劇をその最も内面的な所から作り出し得ない場合、その民族は究極の深みにおいて既に崩壊してゐるのでないかと気遣はねばならぬ。英雄的な行動と英雄的な悩みとは相伴ふ。その結果はつねに悲劇的なものである。諸民族よ、何を汝等が悲劇的として体験し、如何にそれを切抜けたかを語れ、何を汝等がそれから悲劇の姿において表現し得たかを示せ、さうすれば私は、汝等が如何なるものであるかを告げよう。」
 この要求に対して我々日本人、殊に文学者は如何に応ふべきであらうか。ともかく今日わが国の文学には悲劇的なものが余りに乏しいやうである。それはことさら回避されてゐるやうにさへ見える。たとへは日支相戦ふは「東洋の悲劇」であるといはれる。しかしそれは果して真に悲劇的として体験されてゐるであらうか。数年前不安とか危機とかを言ひながらそれが何等内面化されなかつたやうに、今日もまたそのやうであるのか。
 それとも我々はシュプランガーの説においてドイツ精神と日本精神との根本的な差異を見るべきであるか。 ― 危機意識、悲劇的精神とかについて深く考へてみなければならぬ。



    (一九四一年十一月三日)