神経戦への用意



 近代戦のひとつの特色は神経戦にある。戦事の種々の形態が今日においては神経戦の意義を含んでゐる。例へば宣伝といふものも、敵を不安にし、心の落着きを失はせるといふ目的に使はれる。また空襲の如きも、それが与へる実害のみでなく、むしろその実害以上に敵の神経を疲らせ、一般的な神経衰弱の状態を惹き起すことを目的としてゐるのであらう。
 臨戦態勢といふことの叫ばれる現在、先づ必要なことが物的準備を整へるにあるのはいふまでもない。事変以来すでに四ケ年以上を経過してゐるのに、各家庭の防空設備の如きがなほ完全でないといふのは遺憾な事である。これは、今までわが国土が一度も爆弾にさらされたことがないところから、現に戦争をしてゐながら戦争といふものが甚だ観念的に考へられてゐたことによるであらう。またその原因は、従来あるゆる方面に抽象的な精神主義が支配してゐたところにもあるであらう。今やそのやうな観念的な、或ひは精神主義的な考へ方を超えて、戦争に対する物的な実質的な準備が急速に進められなけれはならないのである。
 しかしながら他方、今日極めて大切なことは、国民の各自が神経戦に対する用意を整へるといふことである。その用意は十分であるとはいへないやうに思ふ。種々の流言蜚語の生じてゐるのは、そこに何か不安があるためではなからうか。隣組の常会などがそのやうな流言蜚語の製造所乃至伝達所になつてゐるといふが如きは、神経戦の重大性に対する認識が国民の間に行きわたつてゐないためではあるまいか。或ひはまた臨戦態勢といふことでひどく興奮して妙に張り切つてゐるといふやうなことも、神経戦に対する用意を知らないものといはねばならぬであらう。もちろん緊張は絶対に必要である。しかしそれが神経質にならないやうにすることが肝要である。妙な張り切り方は不和の原因となり、他の人間をも徒らに神経質にするものである。つねに心のゆとりがなければならぬ。過日、柳川翼賛会副総裁が国民に落着きを持てといはれたのは、まことに適切な注意であつた。恐るべきものは一般的な神経興奮とその反面の神経衰弱である。
 神経戦への用意として大切なことは、あらゆる事柄に対して合理的に、科学的に考へてゆくといふ事である。常に理性を失はないで、あり得べきこととあり得べからざることとを区別しなければならぬ。これは今日の如く国際間の宣伝が盛んなときには殊に大切である。その宣伝にのせられて絶えず一喜一憂して心の落着きをなくするやうなことがあつてはならない。宣伝戦が神経戦であるのを理解することは、神経戦に対するときに必要な用意である。

 (昭和十六年八月三十日)