流言輩語の払拭
相変らず流言蜚語が多いといふのは寒心すべきことである。流言蜚語は社会の秩序を破壊するものであるが、戦時においては殊にその害が大きい。それは国民を不安に陥れることによつてその団結を破壊するのである。戦時における流言蜚語が如何に恐るべきものであるかは、たとへばモーロアの『フランス敗れたり』を読んだ人の誰もが気附いたことであらう。
流言蜚語をなくするに最も必要なことは、物を科学的にみることを学ぶといふことである。原因結果の関係を認識し、あり得べき事と、あり得べからぎることとを判断し得る人にとつては、流言蜚語は存在し得ないであらう。戦争といふやうな非常時においては物の見方がとかく現象的に流れて科学的でなくなり、そのために流言蜚語を生じやすいのであつて、かやうな時こそ特に物を科学的に考へてゆくことが肝要である。科学的な考へ方が国防国家体制の基礎であることは、この一事からも理解されるであらう。
過般の翼賛会の中央協力会議において、国民にもつとものを知らせよといふ要求が諸方面から出たやうであるが、それは流言蜚語をなくするためにも甚だ必要な事である。政府は国民にもつとものを知らせなければならぬ。ただしかし、もし国民に科学的に考へる力が欠けてゐるとしたら、ものを知らせる事は却つて流言蜚語を生ずる原因になるだけである。
流言蜚語のうちでも単純に無知から出てゐるものは比較的その害も少く、払拭することも容易である。暫らく時が経てはそれは自然に消滅してゆくから。しかるに何らか為めにするところがあつて巧妙に用意され、執拗に散布されてゐるものは、それほど容易に消滅し難い。戦争中においては各国とも宣伝に力を尽すのであるが、そこから生ずる流言蜚語もなかなか多い。流言蜚語はスパイ的な宣伝であるといふ事ができるであらう。流言蜚語にのせられることはスパイにかかることである。
流言蜚語をなくする最も手近な方法は、自分が聞いても他人に絶対に伝へないといふことである。流言蜚語は伝へられるに従つて大きくなる。そして人間は、殊にものを十分に知らされてゐない場合、自分の聞いた事は何でも特別のニュースであるかの如く他人に話したがるものであるが、かやうな誘惑に打ち克つことが大切である。近来隣組の常会などが流言蜚語の製造所になつたり伝播所になつたりすることがあるかの如く聞くのであるが、治安上からも、防諜上からも、十分に注意を要することである。
(七月十六日)