府県ブロックの反省
府県経済ブロックが国民生活を無用に窮屈にしてゐる事が各方面で指摘されてゐる、この問題はいろいろ重要な示唆を含んでゐると思ふ。
元来、今日ブロックといふものはアウタルキーの理念と結びついてゐる。つまり一定の経済圏を設定し、その内部に於て自給自足を行はうといふのであつて、そこにおのづから閉鎖性が生じてくる。かやうな閉鎖的な自給自足は、それ自体として考へると、封建時代における経済がそれであつたといひ得るであらう。それは局限された生産力、狭隘な交通、固定した社会関係に基いて成立したのであり、逆にそのやうな局限性、狭隘性、固定性を結果した。自由主義経済は、生産力の増大、交通の発達等によつて、かくの如き封建的閉鎖性を破つて発展したのである。然しその結果また経済は全く無統制、無計画なものになつてしまつた。
いはゆるブロック経済はある意味においては経済の中世的な形の復活である。そこにわれわれは今日他の方面においていろいろみられる「新しい中世」といふものを認めることができるであらう。しかしながらこの場合においても、それは単なる中世の復活でなく、却つて新らしいものの創造でなければならぬ。既に自由主義時代を経てきた今日の経済はますます世界的になつてゐる。従つて、ブロックといつても封建的狭隘性のものであることは不可能である。今日は国といふものでさへ経済単位としては狭小になり、広域経済といふことがいはれる時代である。世界がますます世界的になつた現在、ブロックといつても単に閉鎖的でなく、同時に開放的でなければならぬ。日本としても大東亜共栄圏といふ広域経済を考へてゐる場合、国内において府県ブロックの如きものを考へることは経済を封建的な閉鎖性と狭隘性に逆転させる危険が多いのである。
同じことが文化の方面についていはれ得るであらう。日本文化とか日本精神とかを強調することはもちろん極めて大切であるが、封建的閉鎖的にならないやうに注意することが肝要である。日本文化の特殊性を考へるはかりでなく、東亜文化の全体について考へねばならぬ。自由主義の抽象的な世界主義は克服さるべきものであるが、しかし日本文化といひ、さらに東亜文化といつても封建的閉鎖性に陥ることなく、同時に世界文化に向つて開放されてゐなければならぬ。今日、地方文化といふものが強調されてゐる場合、府県経済ブロックの問題に関聯して文化上においても反省を要するものがあるであらう。
(六月二十六日)