統制下の個人

 科学技術の新体制要綱が発表されて、統制はこの方面でも強化されることになつた。これまで日本の科学は個々分散的に研究されて、仕事の協同に欠けてゐた事を考へると、一定の組織のもとに学者の活動を集中し、統合しようといふ新体制は大いに意味がある事といはねばならぬ。
 元来、学問上の共同研究といふものは、近代における科学的方法の確立を保つて可能になつたのである。すなはち近代科学における観察、実験、推理等の方法は主観的、独断的なものでなく、誰でもが自分の頭で理解し、自分の手で検証し得るやうな客観的なものである。かやうに客観的なものであるから、全体の研究を分割して、各人がそれぞれの場面で働くことによつて協同するといふこともできるのである。この点、近代科学は、封建時代の学問とは本質的に異なつてゐる。
 同じことが政治上の協同についても考へられるであらう。今日いはゆる一億一心の国民的協同が大切なことは異論のあり得ないことであるが、ただそのやうな協同が完全であるためには政府の政策に国民の誰もが理解し得るやうな客観性とか、一貫性とかがなければならぬ。その意味での科学性、或ひは近代性が政治に要求されるのである。
 ところで一つの全体主義的機構によつて学者の研究を統合するにしても、その統制下にある個々の学者が学問的良心を失はないで研究してゆく有能な人間でないならば、成績を挙げることはできない。組織はもちろん重要ではあるが、組織の中に入る個々の人間がしつかりしてゐなけれは組織のために彼等は却つてつぶされてしまふことになるであらう。組織の威光で自分の無能を隠したり、組織の圧力で自分の良心を曲げたりするやうなことがあつては研究の進歩があり得ないことは、自然のやうな客観的なものを研究する学問の場合特に明瞭である。
 政治においてもやはり同じことがいへるであらう。全体主義的な政治は、個々の国民がしつかりした人間であることを必要とするのである。わが国において統制経済が困難であるのも、弱小な商工業が余りに多いことによるといはれてゐる。国民のめいめいが立派でなければ全体主義は完全であることができず、却つて国民を無力化してしまふことになる。それが封建的政治と現代の全体主義との異なる点であつて、この全体主義が自由主義の後のものであるからといつて決して個人の完成が不要になつたのではない。特に自由主義が十分に発達しないで終つたといはれる日本の場合、今の世においても各人がめいめい働きのある、強い、立派な人間になるやうに心がけることが大切であつて、それで初めて職域奉公ができるのである。


     (六月八日)