コラム 『一朝一夕』
重点主義と均衡
先日相撲を観に行つて感じたことがある。双葉山の人気はいくらか落ちたらしいが、強い事は相変らず強い。双葉山が強い理由は玄人にいはせると色々あるであらうがわれわれ素人が見て感じるのは彼の身体が力士としていかにも均整がとれてゐることである。背丈の高い割に肉附がとぼしかつたり、肩の張つてゐる割に腹が小さかつたりする者があるなかに、双葉山の身体はよく均整がとれてゐるやうに思はれた。そしてこれが彼の強い一つの理由でないかと感じた。
これはいつも考へられることである。ほんとに強いといふのは、特殊の部分だけが発達してゐるのでなく、全体が均整的に発達してゐるものである。運動の選手などで意外に若くて死ぬものも多い。体操の目的としてゐるのは身体の均整のある発達である。このやうな体操は精神についても考へることができ、修養といふのはいはば精神の体操によつてわれわれの心において理性と情念との間に調和或ひは均整を作り出すことである。同じことが個人についてのみでなく、社会についても考へられるであらう。ほんとに強い国といふのは、単に軍事だけに強い国ではない。政治がこれに伴はねばならないし、更に経済や文化がこれに伴はねばならないであらう。
近年重点主義といふものがとなへられてゐるのはもちろん理由のあることである。現に戦争をしてゐる日本としては、戦争目的の上から緊要なものに重点をおかねばならないのは当然である。しかしながら、どれほど重点主義が必要であるにしてもそこにはまた均整或ひは均衡といふ大切な問題があることを忘れてはならない。重点は軍需産業にあるからといつて、そのために平和産業はただ犠牲にすればよいと考へてはならない。重点主義によつて国民生活を規正するといふのは正しいにしても、その為に国民生活の安定について考へる事を忘れてはならない。
いはゆる重点主義は、重点主義以外のものは何でも犠牲にしてよいといふことでなく、新たに重点となるものを中心として新しい均衡を作り出すといふことでなければならぬ。大切なのはこの新しい均衡を作り出すことである。均衡が必要になつたのではない。ただ均衡の中心となるものが移動したといふだけである。
文化についても、いはゆる重点主義の立場から、文化は不要であると考へることが間違つてゐるのはもちろん、ただ時局に直接関係のあるものだけを認めて、他はすべて不急不要のものとして排することは間違つてゐる。問題はここでも新しい均衡である。政治家は国家の体操ともいふベきものを理解しなければならぬ。
(一九四一年五月二十七日)