感情の処理


 浅間丸事件は我が国民の感情を甚だしく刺戟した。法理論はどうであらうと、この事件に憤慨しない者はないであらう。それは国家の威信に関する問題である。
 我々は今、あの去年の天津事件当時の国民の反英感情の昂揚を想起するのである。当時の興奮した感情は、その後どうなつてゐたであらうか。それは適切に正常に処理されてきたであらうか。激昂した感情が窮まると共に、大多数の者の脳裡から対英問題は消え失せてしまつてはゐなかつたであらうか。今日に至るまで継続されてゐる天津会談に対して、人々は当時と同様の関心をもつてゐないではないか、と恐れられるのである。
 我が国民は熱し易く冷め易いといはれてゐる。もしそれが我々の性質であるとすれは、容易に熱しもしないが容易に冷めもしないイギリス人を相手にするには不適当であるであらう。イギリスに対するには、現に支那事変に処すると同様、何よりも持久力が必要である。支那においては千年が一年である、とイギリスの哲学者バートランド・ラッセルがいつてゐる。支那人は決して急がない、そしてイギリス人も同様である。
 個人の生活において感情の処理の仕方が大切であることは誰も知つてゐる。人生論は感情処理の方法論であるといつてもいいくらゐである。しかるにこれは個人が自己に対する、また他人に対する場合のみの問題ではない。国民が他の国に対する場合においても、如何に感情を処理するかは重要な問題である。
 感情を正しく処理するためには知性が働かねばならぬ。対英問題にしても、一時の興奮にのみ身を委ねることなく、先づ日本の現実を直視し、国際情勢の見透しの上に、東亜新秩序の建設にとつてさしあたつての必要の立場から、今の興奮した感情を適切に処理してゆかねばならぬ。ただ徒らに感情的になると却つて自主性を失ひ、他から利用される危険があるのである。

                  (一九四〇年二月四日)