批評と創造
言葉も時代によつて変るものだ。支那事変の影響のもとにいろいろの言葉が新たに流行するやうになつたが、「創造」という言葉もその一つである。
以前唯物論の流行した時代には、この創造といふ言葉は観念論に属するもののやうに見られて嫌悪された。或る時私が「文化の創造」と書いたらそれは創造でなく「生産」だといつて攻撃されたのを覚えてゐる。とにかくその頃は創造といふ言葉はあまり見られず、流行したのはかへつて「批判」といふ言葉であつた。
しかるに最近では反対に創造といふ言葉が流行して、批判とか批評とかは一概に嫌悪されるやうになつた。そこに時世の変遷を認めることができるであらう。
もちろん今日創造が強調されるのは適切なことであり、必要なことである。しかし批評と創造とを抽象的に分離して、批評を無用と考へることは間違つてゐる。全く無前提なところから物を作ることは不可能である以上、現存するものに対する批評は創造にとつて欠くことができず、創造はつねに批評と結び付かねばならぬ。
もつとも少し注意してみると、この批評嫌悪時代にも一種の批評は、しかも強烈に存在するのである。即ち民衆は自粛、つまり自己批評を要求され、その私生活に至るまで、不断に批評を受けてゐる。ただ反対に、民衆を批評する側は、自己に対する批評を封じ、自己批評に乏しく独善的になつてゐる。
かやうにして批評が一方的であることは、単に批評されるのみの民衆の間に虚無的な気持を起させる危険がある。そして虚無的な人々の内部に鬱積するのほかない批評は、非創造的な、ただ批評のための批評となりやすい。他方、自己に対する批評を拒否する独善的な態度においても真の創造は不可能である。批評精神が旺盛であることは社会の健全性を示すもので、批評が一方的でなく相互的になり、かくして官民相率ゐて新しい国策を創造することが必要な場合である。
批評と創造との関係が全面的に具体的に把握されねばならない。
(八月二十二日)