平素の用意


 このごろ京都へ行つて私は再び先年の関西の暴風のことを想ひ起させられた。あのとき大きな樹木がたくさん倒されて町の美観を損じたのであるが、その被害が回復されてゐないのである。
 都ホテルのヴェランダから眺めた景色は相変らず美しかつたが、それでも大きな樹木が少くなつたためにその実のこまやかさが減じ、何となく荒れた感じを受けたのである。樹木は三年や五年で大きくなるものではない。五十年前百年前の人の心尽しが今日の美となるのである。
 またこの事変で馬が徴発されて行つたために農村では馬の不足が生じてゐるとのことである。しかも馬は自動車などのやうに急に作ることができないのであつて、自然の生長を待たねばならぬ。自然は飛躍しないとすれは、平素の用意が肝要である。
 しかし自動車などにしても、実は俄に作られるものでなく、長い間の人智の進歩の堆積の産物である。今度の事変のために生じた物資の不足に対して代用品の生産が奨励されてゐるが、代用品の発明にしても平素から科学が普及し発達してゐるのでなけれは急に出来ないことである。欧洲大戦の頃ドイツにおいては物資欠乏が却つて化学工業の進歩の原因になつたと云はれてゐるが、それはもちろん平時からつねに科学が奨励されてゐたおかげである。自然の生長に飛躍がないやうに、文化も俄か造りでは出来ないのである。
 かやうにして今日においても文化が重要な関心事でなけれはならぬことは明かである。今は戦争中であるから文化的活動が停頓するのも已むを得ないと云ふが如きは、今度の事変が長期建設であるといふことの真義を解しないものと云はねばならぬ。
 この事変が長期建設であるとすれば、現在も平時と同様文化に対する関心の高揚されることが大切である。生活における節約を奨励するのは好い、しかしそのために文化的な意慾まで抑圧してしまふことにならないやうに注意しなければならぬ。



     (十月十五日)