国策の意義

 先日或る外交官がこんな話をしてゐた。西洋では他の国を国として攻撃することはやらないで、攻撃する場合にはその国の時の政府或ひは特定の政治家を攻撃する、例えばイギリスを攻撃しないでチェンバレン内閣を攻撃する、フランスを攻撃しないでダラディエを攻撃するといつた風である。
 かやうにして自分に都合の悪い内閣を倒し、気に入らない政治家を退かせて、その国の政策が転換されることを企てるのである。しかるに日本においてはチェンバレンを攻撃しないでイギリスが全体として悪いかのやうにイギリスを攻撃する。これは外交上不利なことである。
 もつとも日本も今日では支那に対しては変つてゐる。すなはち日本は支那の民衆を敵にするのではなく蒋介石政権を打倒するのであるといつてゐる。これは外交における一つの進歩と考へることができるであらう、同様の考へ方がイギリスその他の国に対してもなされることが望ましいと思ふ。
 ところで右の如く一つの国とその国の時の政府或ひは特定の政治家の政策とを区別して考へるといふことは国内の政治の場合においても必要である。国策といふものと或る政治家もしくはその時々の政府の政策とは区別して考へられねばならぬ。国策といふものはその時々の政府の政策を越えて持続するものであり、すべての国民の信念にまでなつたものでなければならぬ。その時時の政策は国策を実現するためのものであり、政府の政策が変つても国策は変らないといふことがあり得る。
 この頃国策といふ言葉が濫用されてゐはしないであらうか。政府の政策が何でも国策と呼ばれ、従つて神聖化され、これを批評することはすべて国策に反することであるかのやうに考へられる傾向がありはしないであらうか。むしろ個々の政策に対して正しい批評を行ふことが真に国策に協力する所以であると云はれるであらう。政策の批評がなければ国策の確立も、発展も、その真の実現もないと云ひ得るであらう。

(八月十四日)