法律の限界
先般東京で行はれたいはゆる学生狩りにひつかかつた学生に対して、或る署長は、君たちは三流どころで、一流の不良は決してひつかかりはしない、と云つたといふ話を聞いた。私はこの言葉を捉へて、警察の無責任を詰らうといふのではない、寧ろその正直なことに感心したい位である。
最近物資統制の強化に伴つて経済警察が設けられることになつたが、これも三流どころをいぢめることになつて、一流の不良は法律の網を脱するといふやうなことがないか、注意を要する。尤も、万一かやうなことがあるにしても、我々は警察を咎めることはできない。その責めは現在の経済機構そのものにあるのである。
暴利を貪るとか、買溜めに狂奔するとか、物資に関することは法律で取締ることができるにしても、他の方面即ち精神そのものの取締りは法律ではどうすることもできぬ。
しかもこの精神の動員が根本なのであつて、今日買溜めをしたり暴利を貪つたりする不心得な人間が存在するといふことは、従来の国民精神総動員運動が精神の方面においても実は徹底してゐなかつたといふことを示すものである。精神の動員も従来その官僚主義的傾向に相応して法律的形式的であつたといふことがないであらうか。
国民を精神的思想的にほんとに動員するためには、先づ国民に支那事変の意義を極めて具体的に理解させなければならぬ。そして次に事変と関聯して遂行せられざるを得なくなつてゐる革新の真の意義について、国民に理解を与へなければならぬ。革新といはれるものが単なる変化でなく、如何にして国民の生活の発展の契機になり得るかが最も具体的に明かにせられなければならぬ。かやうにして国民に新しい希望を持たせることが大切なのであつて、希望さへあれは人間はどんな苦難にも喜んで堪へ忍びうるのである。
(七月二十一日)