コラム 『窓 外』
報道と理論
一時非常な人気であつたニュース映画も、この頃はそれほどでなくなつたやうである。写真に制限があるためであるらしい。勿論ニュースに対する大衆の関心がなくなつたわけでなく、反対にこのやうな時代には出来るだけ多くのニュースを得たいといふのが一般の心理である。
非常時においてはニュースに対する関心が大きくなるものであるが、そのために却つて理論的意識が弱くなる惧れがある。個々のニュースに気を取られ過ぎるのである。しかし自分に理論を持つてゐなければ、ニュースの意味も正確に理解されない筈だ。殊に報道が制限されてゐる場合、この欠陥を補ふものは理論である。報道の自由がない時には流言蜚語の如きものも生じ易いのであるが、その場合ニュースに対して判断を行ひ得るのは理論である。今日のやうな統制時代においては与へられたニュースに対して自分で更に統制を行つて理解することが必要になつてゐるが、この統制を行ひ得るものは理論である。
理論は経験に基いて作られる。ニュースも経験の一形式ではあるが、しかし経験から理論を作るためには、永い間の経験を綜合して考察しなければならぬ。今日の現実を的確に把握しようと思へば、最近十年の歴史を精細に考査することが絶対に必要である。ところが現在、数百年前の日本については喧しく云はれてゐるにしても、最近十年の歴史を公平に反省することは忘れられてゐることが尠くない。
われわれの経験にはとりわけ思想的経験がある。最近十年の間に実に多くの問題、多くの批判が持ち出された。それらの問題や批判を無視して今日如何なる革新的な理論も考へられないであらう。
時代は百八十度転回したといふ。しかしそれらの問題が全く消滅したのではなく、それらの批判が全く無意味になつたのでもない。理論や思想でさへもが単なるニュースの如く取扱はれるといふことが、日本文化の弱点ではないか。
(一九三八年四月二十八日)