文化の力
文化人は弱いといはれてゐる。殊に事変以来政治の力が強くなるに従つて、文化人は弱いといふことが益々明瞭になつて来たといはれてゐる。実際、文化人は政治的には弱いのであつて、政治的に文化人が強かつたためしはない。しかし文化人は弱くても、文化は強いのである。文化人が弱いといふことから文化までも力のないもののやうに考へることは間違つてゐる。政治的にはどうであるにしても、文化人はその作る文化の力によつて強いのである。政治と文化とを同じ平面で力競べさせることは無意味だ。一つの文化の力は他の文化の力と比較されねばならぬ。しかも政治は力の強い文化と結び付くことによつて自分の力を増すことができる。文化人が文化のカを信じなけれはならぬことは当然であるが、政治家もまた文化の力を認めなければならぬ。
それでは、どのやうな文化が力をもつてゐるのであらうか。もつと直截に言ふと、東亜の建設を進めようとする日本にとつて、どのやうな文化が有力なものと認められねばならないのであらうか。この問題について、私は先づ少し歴史的に考へてみようと思ふ。
支那の文化はだいたい漢の時代においてその形が定まつたといはれてゐる。支那文化の固有の型を問題にするのなら、漢代までを見てゆけは好いわけである。しかしながら支那が文化的に東亜に最も輝かしい影響を与へたのは、隋から唐の時代である。漢が東亜に及ぼした最も大きな影響は寧ろ政治的のものであつた。漢の影響によつて東亜の諸民族は統一国家を作ることを知つたといはれてゐる。しかるに唐の時代は、その国力は後の元・明・清に比べると遥かに弱かつたにも拘らず、その威力が容易に四囲に及び、広く且つ遠く、外国後世にまで大きな影響を与へることができたのは、その文化の力に依るのである。かやうな唐の文化は如何なる性質のものであつたであらうか。浜田耕作博士は次のやうに述べられてゐる。
「此の唐の文化なるものは、元来頗る『コスモポリタン』の性質を具へたものでありまして、其のうち外国的要素を含んでゐることの多いことは、恐らく南北朝の文化以上であるのであります。已に前に申しました北方亜細亜スキタイ的文化の要素をも包括してゐる上に、今度は中央亜細亜に於いて印度や西域の諸分子と合体し、遂には其の地方々々の特色を発揮しました所の各地の文化を悉く摂取収容してゐるのであります。そして此等のものが凡て支那文化と共に、唐の鎔炉のうちに投げ入れられて、其処に一つのものとなつてしまつたのでありまして、それは独り造形美術の上のみならず、音楽・舞踊その他のものにも窺はれると云ふ大きなスケールであつたのであります。宗教に例を取るならば、ペルシャの教・摩尼教の如きも流入し、基督教の古い一派であるネストル派、即ち景教の如きものさへ伝はつてゐると云ふことは寧ろ驚く可きことでありますが、当時大食・大秦などの名をもつて、アラビヤ・シリヤ等の羅馬領とも交通し、大秦王安敦即ち羅馬のマルクス・アウレリウス帝とも交渉のあつたことを考ふれば敢て不思議ではありません。実に当時世界に存在してゐたあらゆる国、あらゆる民族の文化の要素が、東方に於いて此の唐朝に集合した『コスモポリタン』の状勢は、恰も西方に於ける羅馬帝国のそれに於ける同様の状勢と相対立する偉観であつたのであります。此の真の『大唐』の文化は、斯の如くあらゆる外国的要素を摂容し、世界的の性質を有して居つただけそれだけ、此の世界的の性質は他方にはまたこれを其の四方の国々民族に拡布するに便利なのでありまして、已に漢以後南北朝時代に於きましても、支那の文化は文化のレヴェルの低い四隣の国々へ流出したのでありますが、此の唐の文化ほど広い範囲に且つ強い勢を以て拡布せられたことは、古代に於いては殆ど無かつたのであります。勿論朝鮮や日本も固より其の例には洩れないのでありまして、前に申しました如く、奈良朝前後の日本は一面に於いては全く支那唐文化の一員となつてしまつた様な観を呈したのでありました。
支那においては魏晋南北朝の際、漢民族の外族同化運動が盛んに行はれた。その三百余年の間に支那は血族的にも文化的にも尠なからぬ外国的要素を交へたのであるが、唐代はその運動の一結成にほかならぬ。唐の文化について、和田清教授もまた「唐代文化の特色はその徹頭徹尾世界的国際的な点にある」と言はれてゐる。その時代における交通の発達に伴つて各地の学問思想美術工藝風俗習慣等が支那に齎されたのは当然であり、かくて「印度の哲学宗教も、波斯の思想藝術も、林邑の音楽物資も、北方の馬匹も、南方の土俗も悉く支那に探り入れられて、服飾化粧娯楽の末に至るまで、各方面の長所を綜合して、燦然たる唐代の文化を形成した。要するに当時はアジヤ文明融合の時代で、所謂唐代の文化とは支那固有の文化に印度波斯大食その他八方の国々の特長を加味して出来上つた一種の世界的文化だつたのである。唐代の文化が燦然として豪華を極めてゐるのは、固よりその国力の偉大強盛なる反映でもあらうが、一にはそれが、多様の外来要素を含んで、各方面の長所を綜合発揮してゐるからに相違ない」。「かくて唐代の文化は到底支那国粋的でなく、世界国際的であつた。さうしてこれが即ちその文化が容易に四囲の民族に受け入れられた所以である。次第に発達して来た東亜の諸国は茲に時を得て興隆したので、唐朝の盛時は啻に支那だけの問題でなく東洋諸国が一般に光被した恵沢であつた」、と和田教授は書かれてゐる。日本における奈良朝の栄華も、朝鮮における新羅朝の隆盛もその影響に依るところが多い。更に当時の渤海、契丹、突厥、回等から、東西トルキスタンの国々、吐蕃等の繁盛に至るまで、唐の文化の影響を蒙つてゐる。「之を譬ふれば、中央に燈火の光輝を得て、四隅が明るくなつた如くで、唐の衰へると共に是等諸国の繁栄も皆衰へたのである」、と和田教授は言はれてゐる。
二
かくして先づ二つのことが考へられるのである。第一に、偉大な文化は必ずしも民族固有のものでなく、寧ろ外来諸要素の綜合の上に作られるものであるといふこと、第二に、その国の文化が国際的或ひは世界的性質を有するといふことはその文化の力が四囲の民族に及ぶに好都合の条件をなしてゐるといふことである。
西洋においても、その最も大きな力をもつたギリシア文化は一民族固有のものといふべきものでなく、その古典的時代において既に、当時の世界即ち地中海沿岸諸国の文化の影響のもとに形成されたものである。ギリシア文化は更にアレクサンドル大王の事業によつて急速に大規模に世界化され、ここにいはゆるヘレニズム文化が作られ、坂口昂博士の言葉に依れば、ギリシアの古典文明は現代文明となつた。このヘレニズムの期間はアレタサンドル大王の時代から約三百年に亙つてゐる。ヘレニズム文化の特徴は、坂口博士の言葉をもつて現はせば、「希臘文明即ちその言語・思想・風俗・文物が東方世界に伝播して、そのひろがる限りの世界を希臘化することを主要現象とし、その副現象として、之と同時に東方各地の固有の文明が、希臘文明と接触融合し、随て、この文明を変形改造することが伴ふて居り、彼此の正流と反流との輻輳の結果、希臘文明が世界の文明となつたことである。一言にいへば、希臘文化を基礎とする世界文化の出現である」。かやうにして世界化し現代化した希臘文明は、「三世紀にアレタサンドリアに於て最隆盛を極め、次いで、羅馬が起るや、其の領土内にも流行して、世界的文明殊にキリスト教文明の準備をなし、且古典文明を近代に伝へてその勢力を発揮せしむる媒介をなしたのである」。ギリシア文化は自己を世界化することによつて世界に拡まることができたのである。ヘレニズム文化はローマ人の法律制度と共に大ローマ帝国の文化の力となつた。このヘレニズム文化の影響は古く東亜にも及んでゐる。浜田博士に依れば、希臘文化の影響のもとに作られた北方亜細亜のスキタイ・シベリヤ文化は周末漢初から著しく支那の文化に影響し、その影響は朝鮮から日本にも波及してゐる。特に重要なのは、印度・西域のガンダーラ美術即ちギリシア美術の影響を受けた仏教美術が仏教と共に支那に入り、日本の古い仏教美術にもその形跡が見られるといふことである。 しかしながら第三に考ふべきことは、如何に外国から文化が伝播されても、その民族自身に力がなければ、それが同化されることはできず、従つてそれからその民族固有の文化を発達させることができないといふことである。このことは支那文化が日本へ入つた結果と朝鮮へ入つた結果とを比較してみれば明瞭であらう。奈良朝の文化は著しく支那文化の影響を受けてゐるが、その美術の如きは支那のものに劣らない勝れたものを作り出してゐる。そして既に藤原時代になると日本の独自の文化が作られるやうになつてゐる。仏教にしても、浄土教の如き日本の特色をもつたものが現はれてゐる。日本民族の著しい特色は、よく言はれてきたやうに、その同化力に富むといふことである。奈良朝における唐の文化は同化され日本化されて平安朝の文化となり、また宋・元の文化が同化されて鎌倉・室町時代の文化となつたといふ風に、日本文化は絶えず外来の文化を同化しつつ固有の発達を遂げて来たのである。しかるに朝鮮においては固有の価値ある文化が作られなかつた。朝鮮においては外来の文化が未だ全く同化されてゐない間が却つて善く、同化されてしまふと寧ろ堕落的性質を呼びて来てゐる。かくして日本文化の力は第一にその偉大な同化力にある。外来の要素を交へない純粋に日本固有の文化が存在するか否かを穿鑿するが如きことは無意味に近いであらう。外国文化の長所を加味し綜合することによつて作られた国際的或ひは世界的文化であつて却つて外に向つてそのカを発揮するに適してゐるのである。異民族に対する文化の力はその文化の綜合的な世界的なところから生じてくる。かやうにして明治以後において日本の文化が支那人によつて認められ学ばれるやうになつたのも、日本の国家的威力が示されたことによつて誘はれたといふこともあるが、その威力が発揚されるやうになつた原因としても、またその文化そのものの力としても、日本の文化がそのすぐれた同化によつて支那に先立つて西洋文化を取り入れて現代化され世界化されたところに根本の理由があるのである。
次に重要なことは、文化の力は文化が民衆の中に入つてゆくことによつて発揮されるといふことである。このことは日本と朝鮮或ひは支那とを比較して考へればおのづから理解されることである。この点について津田左右吉博士の言葉を記さう。
「ところが、日本では、此の点についても、全く違つた歴史が展開せられた。権力階級が、逐次、下位から起つて来るもの、地方から出て来るものによつて更代すると共に、文化の中心が、漸次、上から下の方に、中央から地方に、動いて来た。権力と文化との根拠であり基礎である富と力とが民間にあり地方にあつたためである。これは普通に氏族制度時代といはれる時からのことであつて、支那の制度に倣つて中央に権力を集めたと稀せられる大化改新の後にも、実はそれが継承せられてゐた。其の後の権力階級の秕政は、一面の意味では、却つて此の地方の力、民間にある力を発揚させることになつたので、武士の興起がそれであり、其の行動の組織化せられたものが幕府政治であり封建制度である。さうして其の武士的封建制度が大成した後には、新興の市民階級が旧来の農民階級と共に、社会的活動の中心とも原動力ともなり、そこに日本の民族文化が展開せられるやうになつたが、これらの階級のうちでも亦、特に市民のそれに於いて、常に下から上へ地方から中央への動きがあつた。……権力階級の文化が爛熟して頽廃的傾向がそこに生ずると、野生的気分の強い地方人が代つて権力階級の地位を占め、さうしてそれに新しい力を注入し或はそれを改造する。或はまた中央の文化、上流の文化が地方にも下の方にも浸潤していつて、漸次に民間にあるものの教養を高め、彼等に上層階級に対して擡頭するだけの能力を養はせる。さうして彼等みづからが彼等の社会を統制してゆく道徳をつくり出すやうになる。権力階級、有閑階級によつて行はれた支那の文物、支那の制度の模倣が次第に力を失つて、日本に独自な文化が展開せられ、独自な制度が形成せられたのも、このことと深い関係があるので、それは畢竟、民衆みづからが其の生活に適合するものを造り出したのである。民衆の生活には民族的特性が最も濃厚に存在するものだからである。」
しかるに朝鮮においてはどうであつたであらうか。「半島では文化がいつまでも権力階級のものであり、其の恵沢が民衆には及ばなかつた。権力階級の文化は、民衆の富と力とを奪ひ、或は民衆に富と力とを与へないやうにすることによつてのみ成立つたのであるが、権力階級が民衆から搾取するのは、単に自己の権力と地位とを保つため又は自己の享楽のためのみで無く、支那歴代の王朝に対して朝貢の礼を修め、しはしば苛重な要求に応じなけれはならぬ必要からも来てゐるのである。時々北方から蒙る兵馬の惨害に至つては、いふまでもない。かういふ状態が長く続いたために、民衆は極度に疲弊してしまつた。さうして、かういふ民衆と権力階級とは永久に分離した。従つて、権力階級の間に於ける仏教に関する種々の行事も、寺院の建立も、経典の学習
も、又は儒教の学問も、要するに権力階級の文化は、民衆の生活とは何の交渉も無いものになつたのである。」
かやうにして朝鮮においては文化の力が発揮されずにしまつた。しかるに日本においては、漸次、下から上へ、地方から中央へ文化の動きがあつた。それにはもちろん逆に文化が能く上から下へ、中央から地方へ通じたといふことがあるのである。そこに東亜における日本の文化の特色が存在するのであつて、日本文化の力はかやうにして文化が民衆の中に浸潤していつたところにある。いはゆる「アジア的停滞性」は支那社会の最も著しい特徴とされてゐるのであるが、そのことに相応して、支那においても文化は極めて久しい間民衆にまで達しなかつたのである。優秀な文化を持ちながら支那が遂に日本に遅れるに至つたのもそのためである。しかるに日本の社会には支那におけるやうな渋滞が比較的なかつたのである。そこに日本文化の力があるのであつて、日露戦争の時においてさへ、日本の軍隊が強つたのは兵士の間に教育がよく普及してゐたためであるといはれてゐる。文化の力を考へる場合、文化が民衆のものとなるといふことを忘れてはならないのである。
三
右に記したことは、今日、東亜の建設を行ふにあたつて、文化の力が参加するためには、日本の文化が如何なる方向に進むべきであるかを示唆してゐるであらう。それは要するに日本の文化が従来有して来た特色を正しく発揮すれは好いことになるのである。
元来、独立な民族と民族とを結ぶものは文化である。それは独立な人間と人間とを結ぶものが文化であるのと同様である。私が人に話しかける、そのとき私と彼とは言葉によつて結ばれる。言語は一つの文化である。言語は社会的一般的なものである。丁度そのやうに、独立な民族と民族とを結ぶものは文化であり、そこに文化の力が認められる。文化は他の民族の政治的独立を脅かすことなしに他の民族を自己の影響下におき得る力を有し、そのことがやがて政治的にも影響することになるのである。過去において支那は幾度か異民族の侵入を蒙つたが、自己の文化の力によつて却つてその異民族を同化したのである。ところで民族と民族とを結び得る文化は何等か世界的或ひは綜合的性質を具へたものでなければならない。支那文化の場合においても、それが外族を同化することができたのは同時に自己のうちに外来的要素を同化したためであつた。かやうにして今日、日本の文化は世界的にならなければならない。我々の文化は東亜文化の伝統はもとより西洋文化の長所をも摂取して偉大にならなければならぬ。一民族の文化は国際的或ひは世界的になることによつて他の諸民族に受け入れられ、その力を現はすことができるのである。
日本の文化は先づ東亜諸民族の文化に対して親切になることが必要である。日本固有の文化といふものを彼等に強要しようとしたのでは、文化の力は発揮れぬ。彼等の文化の伝統をそれぞれ尊重することが大切であると共に、日本文化のうちに彼等の文化の長所を収容同化してゆくことを考へねばならない。殊に支那文化については、日本の文化はそれを極めて古くから吸収してきたのであるが、過去における支那文化の輸入は主として書物を通じて行はれたのであつて、民族相互の生活上の交渉を通じてではなかつた。従つて日本文化は支那文化を同化してゐるといつても、一面的であつたことは争はれぬ。しかるに現在においては日支は全く違つた関係に立つてゐるのであるから、今後は生活を通じて支那の伝統的文化の長所を取り入れるやうに心掛けねばならぬ。かやうにして日本文化は東亜的文化になり、東亜に対してその力を発揮することができるのである。異民族の文化を全く清掃して、そこに日本固有の文化を植ゑ付けようとするが如き態度は正しくなく、またその成功も覚束ないのである。日本文化が世界的になるために、否、真に東亜的になるためにも、我々は今後と雖も益々西洋文化の長所を摂取することに努めなければならぬことは言ふまでもない。
もちろん日本民族に固有の文化力がないならば、外国文化を摂取することは危険であるかも知れない。否、そのときには、外国文化をほんとに同化することさへ実は不可能なのである。この点において、同じく支邦文化を移植しても、日本は朝鮮などの場合とは異つて民族固有の文化的力を示し、支那文化をよく同化し日本化することによつて日本的文化を作つてきたのである。西洋文化に対しても同様であつて、日本は熱心に西洋文化を学びはしたが、そのために西洋に対して隷属的になるといふことはなかつた。外国文化に対するこの学び方こそ東亜の諸民族が日本に学ぶべきものであらう。これまで支那から多くの留学生が来て、日本に移植された西洋文化を学ばうとしたが、そのために彼等は日本文化の外来的要素にのみ着目して日本文化の全体としての力に注意することを忘れる傾向があり、殊に日本の外国文化に対する学び方そのものに留意することを怠つてゐたのである。私が文化の綜合といふのは単なる混合を意味するのではない。単なる混合であつては高い文化は作られない。混合に達するためには民族に固有の文化的力がなければならぬ。過去の歴史は我々民族にその力があることを立派に証明してきたのであつて、我々は今日その特性を完全に発揚して優秀な文化を作り、東亜はもとより世界に光被すべき責任を有するのである。
さてこのやうに書いて来ると、待ち設けてゐた人々は再び私の「世界主義」といふものに対する攻撃の機会を見出すかも知れないと思ふ。しかし真の民族主義が世界主義と矛盾するものでないやうに、真の世界主義は民族主義と矛盾するものではないのである。東亜協同体の一つの出発点が現在における支那の民族主義の歴史的必然性と歴史的意義との認識にあることは明かであつて、私はそのことについて屡々言及してゐる。まして日本民族の自立性を否定しようなどとは誰だつて毛頭考へてゐないであらう。却つて私は東亜新秩序の建設が日本の民族的使命であり道義的責任であることを強調してきた。ところで独立な民族と民族とを結ぶには文化の力に俟つことが極めて大きいのであつて、そのやうなカを有するものは世界的性質を有する文化でなければならぬ。そのことを私は絶えず力説したのである。ここに世界的といふことは固より西洋的といふことと同じではない。だから私は西洋文化を世界文化と同一視するいはゆるヨーロッパ主義に対する批判を掲げ、「東洋の統一」が却つてこの事変の世界史的意義であり、これによつて初めて世界が真に世界的になるのであると述べた。既に東亜共同体といひ、東洋の統一と言ふ以上、私が地域的原理を否定するものでないことは明瞭である。日本の文化が世界的になるといふことは全く西洋的になるといふ意味でなく、寧ろ東洋の自覚であるべきことは言ふまでもない。しかしながら地域的原理を認めつつ、しかもいはゆる地域主義といふものに私が賛成し難いのは、東亜文化といつても新しいそれは西洋文化の長所を摂取したものでなけれはならぬと考へるからである。もつと根本的に考へるならば、新しい東亜文化の建設は、その弊害の著しい資本主義といふ今日の世界共通の問題を解決しなければならぬ。そこで私は、支那事変の世界史的意義は、要約して言へば「空間的には東洋の統一、時間的には資本主義の問題の解決」に存することを繰返し述べてきた。空間的といふのは地域的といふのと同じであつて、即ち私の意見は空間的・時間的見方の上に立つてゐるのである。文化についても、単に地域的に考へて時間的に考へないならば、東亜文化といふものは封建主義に逆転してしまふことになるのである。他方、同じ資本主義の問題にしても西洋のそれと東洋のそれ、東洋においても日本のそれと支那のそれとの間に差異があることは明かであつて、この差異を無視しては東亜経済協同体も作られないのである。しかしまた私が地域主義といふものに賛成し難いのは、東亜協同体論は支那事変を契機として現はれたものであるにしても、思想としては世界的普遍性を有すべきものであると考へるからである。今次の欧州戦争を機会に現はれつつあるヨーロッパ聯盟論の如きもそのつながりにおいて理解されねばならぬであらう。更に重要なことは、東亜協同体の思想原理は、思想原理としては、東亜といふ地域を問題にしてのみ実現されねばならぬものでなく、実に先づ日本国内において実現されねばならぬものである。これが国民協同体論の現はれた理由でなければならぬ。国内改革なしには東亜建設なしと度々言はれてゐるのも同じ理由からである。
最後に私は、世界の諸国の興亡を顧みつつ日本文化について論じた内藤湖南博士の講演の結語をここに書き留めでおかう。
「ところで問題は、東洋文化がこれで出来上つてしまつて、もはや東洋はこれで終りを告げて、東洋民族は茲で全く役目を済して滅亡してしまふ運命になつて、さうして此東洋文化を西洋人が吸収して、そこで西洋人が新しい文化を形作るか、或は東洋人が、今日西洋人が有つて居るところの文化を吸収して、さうして東洋と西洋との文化を一つに融合して、自分の物にして民族が永続するかといふ二つの問題が起つて来ると思ひます。これは余程むつかしい問題でありまして、滅多に予言の出来る訳ではありませぬが、今日の現状で、自分の文化に満足せずして、大に謙遜の態度であつて、他の文化を吸収する非常な熱心なる希望を持つて居る民族は、東洋民族か、西洋民族かと申しましたら、私は東洋民族がそれであると思ひます。西洋民族はどちらかと云ふと、自分の文化に食傷し、自分の文化に自負自尊心を有しすぎて、他の文化を吸収するところの能力を余程減じて居りはしないかと思ふのでありますが、東洋民族は其点に於て、如何なる難解な、如何なる高尚な文化でも、どこまでも進んでそれを吸収して、さうして自分の文化と之とを一緒にしてやつて行かうといふ大きな希望と決心とを有つて居るやうであります。さうなつて来ますと、ここに東西文化融合の希望も達せられるのではないかと思ふのであります。是は予言でありますから、中るか中らないか分りませぬ、併し現在は兎に角どちらかと申せばさういふやうな傾になつて居ると云ひ得ると思ふのであります。世界の最も完全なる文化を形作る為には、自分で従来有つて居つた文化の価値を認めて、さうして何処までも其長処を保持して、更に他の長処も十分取入れるといふことが必要であつて、自分の文化に心酔して、他の文化を全く排除するといふことは、決して最良の手段ではないと思ふのであります。」これは大正十年における内藤博士の言葉である。その後今日、日本の文化の態度は如何なるものであらうか。