文化団体の再検討

 この数年は我が国に於いて文化団体の簇生した時期であつた。日本ペン倶楽部、文学懇話会、
独立作家クラブ、翻訳家協会、等々の諸団体がその間に組織されてゐる。多くの同人雑誌の団体
も一種の文化団体と見られ得る。科学ペン倶楽部の如きものもあり、その他詩人、歌人の団体、
美術家、美術批評家の団体、更に音楽、映画等に関係する団体もいくつか作られた。かやうにし
て現有する我が国の文化団体の数は既に著しい数に上つてゐる。然るにこれらの文化団体の現状
を顧みると、その大多数は関係者自身ですら満足することのできないやうな状態にある。いな、
我が国の文化団体は今日再検討さるべき必要に迫られてゐるのである。
 文化団体といふのは定義において民間の団体に限られない。帝国美術院のやうな官設団体も考
へられるし、国際文化振興会のやうな半官的性質のものもある。そのうへ、日本の文化の発達の
ためには、文芸アカデミーその他の官設団体を更に作ることが肝要であるといふ意見も出てゐる
のである。しかし既に存在する官設文化団体にしても決して満足な活動をしてゐないといふのが
事実であるばかりでなく、いつたい現在有力なアカデミーを作ることができるかどうかが問題で
あらう。外国のアカデミーの歴史を考へても、それらは文化の開化期に創立されるのがつねであ
つて、そこには支配的になつた文化の指導精神が活溌に働いてゐた。今日の如き文化の混乱期に
おいては、真に有力で有意味なアカデミーは作られ得ない事情にある。帝国芙術院の改組の失敗
なども、その原因は従来の美術団体に附随する種々なる情実といふものにもあつたが、しかし現
在美術におけるアカデミズムといふものが確立してゐないといふこと、或ひはこれまでのアカデ
ミズムが動揺してゐるといふことに大きな理由があるといひ得るであらう。今日の情勢において
政府の手でアカデミーが作られるとすれば、それは文化統制といふが如き純然たる政治的目的を
もつたものとなるのほかない。その指導精神にしてもいはゆる「日本精神」の如きものとなるこ
とは容易に想像し得ることである。
 既にそこから知られるやうに、あらゆる文化団体にとつて現在問題になつてゐるのはその指導
精神であり、それは必然的に政治的意味を含まねばならぬ。過去数年間に多数の文化団体が作ら
れたといふことも社会的政治的事情に基いてゐる。文化団体といふのは単に文化人の集合ではな
く、一定の文化的目的のためにする結合であり、従つてそこには文化上の指導精神が必要であり、
そしてそれは今日特に政治的意味を離れることができない。指導精神をもたない文化団体は文化
団体とは云へないのであつて、現有の諸文化団体には更めてかやうな定義に立ち戻つて考へ直す
必要のあるものが少くない。文化団体の定義から見て、今日我が国にはどれほど真に文化団体ら
しい文化団体があるであらうか。文藝家協会とか翻訳家協会等の如きは文化人の純然たる職業組
合であると考へられてゐるが、しかし現在他の生産面における職業組合、労働団体はいづれも皆
な何等かの指導精神をもつてをり、指導精神を問題にしてゐるのである。精神的労働に従事する
者の団体だけが指導精神の問題に無関係であることは不可能である。


      二

 さきほど島崎藤村氏が南米から帰つて来られた。断るまでもなく氏は日本ペン倶楽部の代表と
してペン倶楽部の国際大会に出席されたのである。氏の帰朝は新聞に報ぜられたが、あの出発の
際の賑かさに比して、余りに淋しかつた。それは当時ジャーナリズムが攻撃に心を奪はれてゐた
といふ事情に依るであらう。そして出発の際の賑かさには、この老大家が『夜明け前』の大作を
完成され、朝日の文化賞を授けられたといふことなどから来た人気が大いに手伝つてゐたであら
う。実際、氏の南米旅行は『夜明け前』に対する公の慰労旅行といつた感がないではなかつた。
 しかし、ともかく島崎氏は日本ペン倶楽部の代表として国際大会に行かれたのである。大会の
模様、その内容、そしてそれが日本の文化、特殊的には文学に対して如何なる意義を有し、如何
なる反省を与へるものであるか、等に就いて氏から早速詳しいことを聞きたいといふのは、文化
人一般の希望であらう。日本ペン倶楽部はこの際月並の歓迎会に留めないで、島崎代表の報告講
演会でも開いてはどうか。近年文化講演会が極めて尠くなつたことを不満に思つてゐる青年は多
い。これは日本ペン倶楽部に限らず、各種の文化団体において真面目に考へてみて好いことであ
る。何事も御時世だと云つてゐては、文化人としての自主性がなさ過ぎる。
 かくの如きは実に文化団体の指導精神に関することである。日本ペン倶楽部にしても、その指
導精神が何処にあるのか、やや曖昧ではないかと思はれる。我々の知る限り、この団体は国際文
化振興会などで出来ないやうな活動を殆どしてゐないやうである。もつと独自の存在性を発揮し
て貰ひたいものである。ブエノス・アイレスの大会においてはファッシズムとか文化の精神とか
に就いて盛んに論戦されたらしいが、さうした点から考へても、この団体は自己の指導精神を再
検討して明確にすることを要求されてゐる。殊に一九四〇年にはペン倶柴部の国際大会が東京で
開催されるとすれば、その精神的準備としてもかかる必要は愈々あるのである。
 同様のことは他の文化団体に就いても云へる。例へば科学ペン倶楽部の如きも、その指導精神
の所在が我々にはあまり明瞭でない。近来科学精神の問題が喧しい折柄、この団体が科学精神の
昂揚を中心として活動するといふことは日本文化の発達にとつて甚だ有意義なことであらうと思
ふ。いつたい我が国の文化団体の基調をなしてゐるのは多くの場合依然として昔ながらの「同人
雑誌意識」といつたものでなからうか。ところが同人雑誌の団体にしても、一個の文化団体とし
て、自己の指導精神を持つて現はれねばならぬ筈である。指導精神が明瞭でない故に公共性に乏
しく、私的なものとなつてゐる団体も尠くない。
 文化団体も、すでに団体である以上、一個の社会的存在であり、社会的勢力とならなければな
らぬ。強力な社会的勢力となるためには、その精神において違つたものでない限り、各種の文化
団体が合同して一個の綜合的団体の一部門となるといふことが通常であらう。例へば文藝家協会
の如きものに綜合されて好いと思はれる団体は現在かなり多い。これは単に便宜上からでなく、
文化団体の社会的勢力の見地から必要なことである。世の中は合同と統制の時代である。文化団
体の合同問題も再検討されて好い。
 現在の文化団体に最も欠乏してゐるのは社会的勢力としての自覚である。現代日本の「推進力」
として文化団体は何を寄与してゐるのであるか、現代日本の状態は軍人や官吏や政党人に委せて
おけるのであるか。そのとき日本の文化は如何なつてゆくのであるか。


       三

 内閣の更迭のために平生前文相が東京オリンピックを目指して計画した現代美術館の建設が危
ぶまれるやうになつたので、美術家の諸団体が聯盟を結成して運動を超すことになつたと停へら
れてゐる0由来政府の文化政策には一貫性が見られないのであるから、かやうな運動が起るのは
常然であつて、他の文化部門の諸国膿もこの運動を援助して好いであらう。文化園津が一個の紅
禽的勢力とならねばならぬ理由はここにも認められる○現代美術館の問題に限らず、我が国の政
府はこれまで殆ど何等文化政策といふべきものを有しなかつた。かかる事情から云つても、文化
囲膿が一個の統合的勢力となつて政府の文化政策を刺戟し促進する必要は多いのである。
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                    争
 然るに文化囲膿が一個の祀禽的勢力となり得るためには、その指導精紳を確立することが要求
される。例へば、いま現代美術館が建設されたとしよう。次に起る問題は、そこに如何なる美術
作品が陳列されるかといふことである。今日の政治情勢においては、この場合にも「日本的」と
いふことが問題にされる可能性が砂くないと考へねばならぬ。即ち最近制定された文化動章につ
いて人々が懸念してゐるのと同様の危険がそこにも存するのであつて、折角出来た現代美術蝕が
文化統制といふ政治的目的に利用されるといふことは考へられないことでなからう。
 如何なる文化人も「日本文化」の教達を思ひ、そのために努力してゐることは確かである。第
一、我々が文化を作るといふ場合、我々は日本的現音の上に立つのほかない。抽象的に世界的と
いふことを考へたつて、文化を作り得るものでない。しかし何が日本的であり、まして何が日本
固有のものであるかといふことになれば、問題は決して簡寧でない。近年喧しい「日本的なもの」
とは、畢に封建的なものであつたり、またそれは畢に復古的に考へられて教展的に考へられてゐ
なかつたりすることが多いのである。ただ日本的なものといふのみでは文化的には意味がなく、
それと同時に世界性をもつたものでなければならぬ。東京オリンピックを目指してなされる種々
なる文化的施設が、相攣らずフジヤマやゲイシャやサクラの範疇のものでないやうに、各種の文
文化園鰹の再検討

                                           一一二

化国債が活動する必要が必ず生じてくるであらう。畢にエキゾチックな趣味によつてのほか外国
人に媚びることができないとすれば、世界の強国日本にとつて大きな恥辱であると云はねばなら
ぬ。
 ところで文化園饅がその指導精紳を明かにしようとすれば、政治的意味を含まないといふこと
は不可能である。今日いはゆる日本的なものにしても、純粋な拳闘的概念でなく、同時に政治的
槻念である。文化と政治の問題こそ、現代のあらゆる文化人に課せられた決定的に重要な問題で
ある。文化と政治といふことを文化と組合といふ風に置き換へ、更に組合といふものを風俗とい
ふほどの意味に考へ直すやうな閏超の同避は許されない。固より文化圏饅が政治国債になるとい
ふことは慎むべきであり、文化が政治主義の犠牲になるといふことも避けねばならぬ。しかし我
が国のインテリゲンチャにとつて最も不足してゐるのは政治的教養である。これは明治以後にお
いても我が国では政治の民主性が†分教達しなかつたといふことにも関係がある。そこから政治
がいはば日常化されず、我々の生活と思想との中へ浸潤してゐない。政治の観念は抽象化され、
政治と云へば何か異常なことのやうに考へられ、人間の生活そのものが本来政治的であるといつ
た見方が全く妖けてゐる。政治の観念が具饅化されると共に、文化と政治といふ現代の避け難い
根本問題について各人が認識と思索とを新たにすることが文化囲潰の黎展の前提である.
文化園膿の再検討
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