文官任用令の改正

 文官任用令の改正はかなり以前から問題になつてゐる。近衛内閣においてはその実現を期してゐるやうであるが、枢密院の反対に遭つて一頓挫を来たし、問題は今議会後に持ち越されることになつたらしい。しかしどのやうな曲折があるにしても、その改正はやがて実現することになるであらう。なぜならそれは時代の要求であり、この要求は今日の非常時によつて強化されてゐるからである。文官任用令の改正と関連して、官吏の身分保障の撤廃、高文試験の改正の問題があることは云ふまでもない。
 改正の必要は先づ法科出の官吏と技術家出身の官吏との待遇の差別を無くするといふ点に考へられる。この点についての不平は従来も技術家出身の者によつて絶えず述べられてゐたことであり、改正されねばならぬのは当然である。同じやうに大学を卒業しても、法科出でないためいつも下で使はれねばならぬといふのは公正でない。とりわけ今日の行政には専門の技術的知識を必要とする部分が多くなつて来てゐるのである。もはや法科万能の時代は過ぎてゐるであらう。社会生活において技術の占める重要性が増すに従つて、官吏にも技術家が要求されることになる。
 そこでまた高文試験にも従来の法律中心主義を改めて、経済等の科目を多くし、経済学部等の出身者にも受験の便宜を与へようといふ意見が現れてゐる。これも、今日の国家並びに社会機構において経済の有する意義を考へる場合、尤もなことであると思はれる。ただかやうに受験の範囲を拡張することによつて法律軽視の傾向を生じないやうに注意することが肝要である。日本が法治国である以上、法律は依然として官吏にとつての根本でなけれはならぬ。高文試験の範囲を拡張するにしても、法科出の者に多くの経済の学科を課することによつて徒らに負担を重くしたり専門を散浸にしたりするやうな結果に陥ることは避けねばならず、その出身の学部によつて試験の種類を区別するといふやうな方法を講ずることが必要ではないかと考へる。法科万能は善くないが、法律軽視は更に善くないのである。
 勿論、大学は専門的知識を授けると云つても、その程度のもので間に合はないことが多いであらう。従つて官吏が絶えず新知識の吸収に努めなけれはならぬことは当然であるが、そこには自ら一定の限界があるのであり、殊に時世が困難になれは民間で鍛へられた経験家、学識者を官吏として任用せねばならぬ必要が生じて来る。文官任用令の改正はこの点からも要求されるのである。官吏には人間においても物の見方においても自ら官吏タイブといふものが出来上るのであるが、非常時においてはかやうな型を破つた人物が必要であり、その自由な任用の途が開かれねばならぬと考へられるのである。
 これも確かに理由のあることである。任用を自由にすることは自ら官吏の身分保障の撤廃と関係して来るのであつて遠慮なく罷免して有能の士を大いに登用せよと云はれる。これは原則論としてはまことに立派である。しかし一歩誤れはそこにまた種々の弊害が生ずるといふことに注意しなけれはならぬ。即ちそれは官吏を無用の程度に政治化する危険を伴つてゐる。時の政治家が自分に都合の好い者を勝手に用ゐ、都合の悪い者を勝手に免ずるといふやうなことになり、そのために官吏も政治的にならざるを得ないやうな弊を生じ、自己の技術家としての本分を忘れることになり、また派閥を作つたり徒党を組んだりするやうな弊を助長することになり易いのである。かやうな弊は政党政治時代における地方長官の場合などにおいて既に十分に経験されて来たことである。有為の才を広く求めて用ゐるといふことは極めて必要なことに相違ないが、それには先づ何よりも善い政治が行はれねはならぬ。今日の日本にとつては良い官吏以上に良い政治家が必要なのである。