現代文化の哲学的基礎



 現代文化の問題を論ずるにあたり、先づ我々がそれを考察する立場は如何なるものであるかが問題でなければならない。現代文化の特徴が、よくいはれるやうに、社会の転形期に於ける文化であることは殆ど議論を要しないであらうと思ふ。これは種々の立場、相敵対するやうな立場に於ける人々もが恐らく一致して承認してゐる所であらう。このやうな転形期、即ち過去の文化は既にその役割を終り、もしくは終るべき運命にあつて、しかも尚ほ新しい文化が確定した形態に於て生産されてゐない、もしくはその生産が成熟してゐない時代に於て、文化の問題を論ずるとすれば、唯一の可能なる立場として我々は歴史的立場に立つの外ないのである。今日の文化がまさに転形期の文化であるといふ事実は、この文化を考察する観点を歴史的見地に置くことを要求してゐる。もとより単に転形期の文化のみでなく、凡ゆる時代の文化が歴史的立場から考察されねばならないのであるが、かかる歴史的立場からの考察が必要であるといふことは、今日特に我々の文化が置かれてゐる情況によつて明瞭にされてゐるのである。ところで歴史的立場からものを見るといふことは、ものを発展的に見て行くことである。文化は固定したものでなく絶えず変化し発展して行くものであり、我々の時代の文化もこの儘止まるものでなく何等か新しいものに転化して行かねばならず、或ひは既にそのうちに新しいものが生産されつつあるといふ風に見て行くことである。その意味に於て現代文化を歴史的に考察することは、将来に向つて展望的に考察することでなければならない。過去の文化をただ回顧するのでもなく、現在の文化の状態をただ歎ずるのでもない。真に展望的に見ることは未来から見ることである、創造の立場から見ることである。我々が新しい文化を生産する立場に立つて見ることでなければならない。これが今日の唯一の歴史的立場である。歴史的立場といふのは行為の立場である。かくて現代文化の哲学的基礎が問題になるとき、その哲学は行為の哲学、しかも歴史的行為の哲学、創造の哲学でなければならぬ。このことはマルクス主義でも考へられることであつて、如ちマルクス主義はその経済理論に於て歴史的立場、特に生産の立場を取つてゐる。我々はこのやうな立場を単に経済現象のみでなく凡ゆる文化の考察に於て徹底させねばならないと思ふ。遺憾ながらこれまでマルクス主義にあつては、所謂精神的文化を社会の経済的基礎の単なる反映に過ぎないと見るところから、この文化そのものを真に生産の立場から考察することに於て不徹底を免れ難かつたやうである。


      二


 順序として、今日もはやその使命を終りつつあるとされるブルジョア文化、近代市民社会の文化の一般的特徴について簡単に述べて置かう。この文化の根本原理が自由主義であるといふことは、誰も認めてゐる。この時代の代表的な哲学者カントは自由の哲学を樹立した人であつた。カントの哲学はもちろん非常に深いものを持つてゐるが、その自由の概念は自律を意味した。他によつて律せられるのでなく自分で自分を律すること、自分が自分の行為の立法者であるといふことであつた。自律の概念に於ては自己を超越した如何なるものも認められない。自分が自分の立法者と考へられるところから、そのやうな自由な個人主義と結び付く。カントには自由な人格の共同体としての目的の王国といふ注目すべき思想もあるが、カントですら、一般的に云つて、個人主義的な考へ方を脱してゐない。自由主義は個人主義である。その場合に社会が考へられるにしても、社会は、近代の代表的な社会学説として知られ、ホップスやルソーなどに見られる社会契約説に於ける如く、個々の独立の個人が謂はば契約に依つて相結んだ所のもの、後から出来た所のものと考へられる。社会が考へられるにしてもその基礎は依然として個人主義的である。如何なる時代に於ても社会が問題にならないことはない。個人主義だからと云つて社会を問題にしないのではないが、その考へに於て個人を先とし社会を後にするといふ原理的な関係が有する故に、個人主義といはれるのである。更に近代社会の個人主義乃至自由主義はその合理主義と関係を持つてゐる。カントの自由は自律性を意味したが、その自律性の基礎は理性に置かれたのであつた。理性的であり合理的であるといふことが近伏の文化の一特徴であつて、それは合理主義の文化であるといふことが出来る。この合理主義を模範的に象徴するものとして、マックス・ウェーバーは簿記を挙げてゐる。近代的合理主義は簿記的合理主義である。
 これらの特徴は市民的文化のあらゆる方面に於て認められる。ひとつの例を科学に求めよう。人々は科学を考へるにあたつても、何よりも先づそれの自律性を問題にした。例へば、社会学は如何にして可能であるか、と問ふ。この問は、社会学は如何にして自律的であり得るか、即ち他の科学とは全く異る自分自身の独立性を持つた科学として成立し得るか、といふことを意味した。歴史や文化に関する科学を考察する場合にも能く知られるリッケルトの理論を想ひ起せば明かであるやうに、文化科学或ひは歴史科学の自然科学に対する自律性が何よりも関心されたのである。リッケルトは、自然科学は法則の認識であり、これに反し歴史科学は個性乃至特殊性の把握であると考へた。普遍と特殊、法則と個性を全く対立的に分離して、歴史科学と自然科学との原理とした。ここにも見られる如く、物を抽象的分離的に考へることが各々の文化の自律の思想の基礎となつてゐる。そしてそれはまたその合理主義の基礎でもあつた。論理的に表はせば、その合理主義は形式論理の合理性であつたのである。


       三


 そこでもつと近づいて、我々が現に住んでゐる転形期の社会の文化の一般的特徴を考へてみよう。今述べた通り、近代的市民的文化は合理主義、個人主義、自由主義といふ相互に関聯した三つの特徴を持つて居たとするならば、丁度その反対のものが現代の文化、この転形期に於ける文化の特徴となつてゐるやうに思はれる。非合理主義、反個人主義、反自由主義、主義とまでならない場合にも気分として自由主義反対、個人主義反対、合理主義反対といふことが現代人の一般の心理を支配してゐる。これは今日、種々の立場の思想に於て見られる所である。しかしその現はれ方もしくはその考へ方に於て必ずしも一様でない故に、我々はもう少し詳しくこの点に就いて考へて見なければならない。
 先づ第一に現代の一つの流行思想となつてゐるファッシズムを見るに、それが非合理主義であることはここに述べるまでもない。それはまた国家といふものを絶対的な権威として個人がそれに対して自己を犠牲にすること、個人がそれの前に自己の自由を否定することを要求するものであつて、反個人主義的な、反自由主義的な性質をもつてゐる。ところでファッシズムが自由主義に反対することは、市民的文化の批判として一応正しいとしても、問題は次のやうなところにある。一般に自由と自由主義とは区別しなければならぬ二つの概念である。自由主義は一つの歴史的な範疇として、一定の歴史的時代つまり近代市民社会の特徴を現はすものとして用ゐられる。しかし自由は凡ゆる人間が凡ゆる場合に求めるものであつて、どのやうな社会が来ようとも、自由に対する人間の要求が無くならうとは考へられない。自由主義が否定されねばならぬからといつて、人間的自由までが否定されねばならぬといふことにはならない。ただ問題は、このやうな人間的自由を実現する為に、従来の自由主義が考へたやうな思想原理乃至は実行的手段で十分であるかどうかといふことである。我々は自由主義と一緒に人間的自由までも放棄すべきではない。
 然るにファッシズムに於ては自由主義の否定が同時に人間的自由の否定となる傾向をもつてゐると思はれる。これは我々の承認し得ない所である。
 尤もファッシズムに於ても自由が問題にされてゐないわけではない。自由に対する要求が人間
の存在そのものに根差したものである限り、そのやうなことはあり得ないことですらある。団体
主義的なファッシズムでさへ自由を問題にせざるを得ないといふことは、自由に対する要求が人
間にとつて如何に根源的なものであるかを示してゐる。しかしファッシズムは、自由がただ団体
のうちにのみ、従つてまた個人の団体への絶対的な服従と犠牲に於てのみ存すると主張する。こ
のやうな自由の思想は、個人主義的な自由の思想に対しては確かに正当なものを有してゐる。個
人の自由は社会に於て実現されるのほかないであらう。自己を全く否定して社会のために自己を
犠牲にすることが却つて自己が真に自由になる所以であると考へることは正しい。へーゲルは、
自由を「絶対的否定性」として規定したが、かかる絶対的否定性を離れて自由は有しない。個人
と社会とはどこまでも一つのものと考へることができる。しかしながら他の反面に於て個人はま
た社会に対してどこまでも独立なものと考へられねばならぬ。個人は社会から生れるものである。
けれども社会から生れた個人は社会に対して独立に働き得るものである。この関係はちやうど藝

114

 

術的創作に於て、作品は藝術家によつて作られるものでありながら、一旦作られると彼から狩立
なもの、掲立に働くものとなり、逆に彼に封して作用するのと類似してゐる。かやうに濁立なも
のが作られることが「創造」といふことの意味であつて、個人が杜脅から生れるといふことも、
かくの如き創造の関係に於て生れることである。濁立なものでないものは人格とは云ひ得ず、自
由とも考へられない。徒つて個人は畢に杜禽から規定されるのみでなく、逆に自己が澗立なもの
として杜合を規定し返すと考へられねばならぬ。しかるにファッシズムに於てはこの後の関係が
明かにされてゐない。それ故にファッシズムが如何に自由を説くにしても、結局個人の奴隷的な
服従乃至盲従を要求することになるであらう。
 このことは現音に於てさうであるばかりでなく、ファッシズムが基礎としてゐる哲学に於てさ
うである。ファッシズムの哲学的基礎は、あの普遍主義もしくは仝髄主義であるが、仝鰹主義は
人間的自由の否定に終るべき理論的運命をもつてゐる。仝鰹とは論理的に如何なるものであるか
といへば、これまで異能的普遍とか、綜合的普遍とかと云はれたものである。それは形式論理学
に於ける普遍、即ち抽象的普遍もしくは分析的普遍に封して名付けられる。仝債主義が普遍主義
とも稗せられるのは、具燈的普遍の意味に於てである。
現代文化の哲革的基碇

 かかる普遍は特殊を自己の部分として含む仝膿である。具憶的普遍の論理は仝鰹と部分の論理
であり、しかも仝餞と部分との関係が有機的関係として考へられることがその特色である故に、
その論理は有機憶説的論理と呼ばれることができる。もしもブルジョア自由主義の論理が形式論
理であると批評され得るとすれば、ファッシズムの論理は有機健説的論理として特徴付けられる
ことができる。そこでは自由も有機憶の構造に徒つて考へられるのである。この論理の根本命題
は、仝饅はつねに部分に先行するといふことである。ところで、仝盟主義の論理によつては、個
人の自由は考へられない。個人的自由といふものがあるのではなく、自由は個人の意志と普遍的
意志との一致であると云ふのは、確かに眞理であるとしても、それは一面であつて、杜合と個人
とは一つであるといふのみでなく、同時に他面個人はどこまでも濁立なものであるといふのでな
ければ、眞の自由は考へられない。有機憶説においては個人の杜合への依存が考へられるのみで
あつて、眞に濁立なものとして個人は考へられない。個人は杜合と一つであると同時にどこまで
も猫立であると見るのが眞の拝謹法である。個人は民族を飛び越えることが出来ない、とはへ1
ゲルの有名な言葉であるが、ヘーゲルの拝詮法はなほ眞に締語法的でなく、有機憶説に縛られて
ゐたことを示すものにほかならない。
 ファッシズムとそれに封立するマルクス主義とのいはば中間にある哲学の代表約なものは所謂
不安の哲学である。それは現代紅合の中間居である析のインテリゲンチャのイデオロギーである
と見られてゐる。不安の哲学に属する人として、ハイデッガトヤスペルス、lTチェ、キェル
ヶゴール、シエストフなどが挙げられる。彼等の哲学は非合理主義的であり、また近代的自由主
義とは異るところを持つてゐる.もとより彼等の哲学相互の間には種々の差別があつて、一々こ
こで論ずることができない。今はただハイデッガIを一例として頼り上げるにとどめる0
 ハイデッガーの哲学の主題は人間の研究であるが、彼はそれを人間撃と云はないで基礎的存在
論と呼んでゐる。何故に基礎的存在論と呼ばれるかと云へば、彼によれば、人間寧において人間
が研究の対象となるには既に私にとつて人間が人間として理解されてゐなければならず、それに
はそのやうに理解するものの存在理解が先立たなければならぬ0ダーザインハ現存在)の存在理
解は人間寧よりも先のものである、とハイデッガIは云つてゐる0このことは丁度カントが経験
の対象界を研究する科挙の根棲を明かにするためには先づ主観の問題に還らなければならぬと考
現代文化の哲寧的基礎

                                              二一四

へたのと同様であると見ることができる。ダーザインとは主観的なものである限りに於ける人間
と言ひ換へることもできるであらう。ハイデッガーの哲学は、カントとは同じ意味でないにして
も、主観主義であることにおいて攣りはない。これは彼の哲学が行賃の立場でなく、理解の立場
に立つてゐることにも基づく。畢なる理解の立場からいふならば、人間を人間として理解する主
観ないし主観的なものである限りに於ける人間が先づ問題でなければならぬとも云はれるであら
う。しかし行為するものとしての人間はそのやうに軍に主観的なものではない。行為する人間は
つねに身鰹を持つた所のこの現青の人間であり、それは客観的なものである。もとより軍に客観
的なものであるならば、行壊するとは考へられない。行潰する人澗は主観的にして同時に客観的
なものである0よし理解の立場に於ては主観主義が可能であるにしても、行為とか或ひは生産と
か青践とかの立場に於ては凡ゆる覿念論、主観主義は無意味に蹄する。ものを理解するには意識
だけで十分であるかも知れない、しかし我々が行為する主饅であるといつた場合、その主燈とい
ふ意味は主観もしくは意識であることができない。しかし行為の立場に於て見るとき、人間は軍
に輿へられたるものでなく、却つて行為が人間を作つて行くのである。ところが認識の立場に於
ては人間はただ客観的に輿へられたものと考へられるのがつねであるD
F人間を人間として理解するものは人間である。言ひ換へれば、人間は自費的である。徒つてハ
イデッガーの存在論は自覚存在論とも呼ばれてゐる。いはゆる晋有とは自費存在のことである。
自費とは自己が自己を知ること、自己意識もしくは自己理解と解されることが普通である。確か
に自費とはそのやうなものである。しかし自覚を畢にそのやうに考へることは種々の誤謬を煮き
起し得る。そのために自費は畢に意識の立場であると考へられて観念論ともなり、軍なる自己の
立場であると考へられて個人主義ともなる。しかし本官をいへば、自覚とは畢に自己が自己の存
在を知ることでなく、寧ろ自費とは畢に自己が自己の存在の根披を知ることであり、自己を知る
ことが同時に自己の存在の根振を知ることであるとき、眞の自費がある。自費は自己意識である
ょりも根接の意識である。畢なる自己理解としては自己も知られないのであつて、自己はつねに
他に対してのみ自己であり、自己として知られ得るのである。人間がひとりでゐるとすれば自己
を自己として知ることも出来ない。孤猫といふものは何であるか。砿猫とは自分であることでな
く、寧ろ自分が無くなる時である。そのとき自分は無くなつて、自分が謂はば感受性の場所にな
つてしまふ。この場所は紳秘主義に最も親しい場所であらう。孤渇から股するために言葉が覆せ
られる。しかるに言葉はつねに自己と他者との関係を含んでゐる。ハイデッガーのいふ自費はこ
現代文化の背革的基礎
二一五

                                               二一六

れに反して軍なる個人的自費に過ぎない。眞の自費は杜合的自覚でなければならぬ。デカルトの
如く自費を畢に知的意味に考へるのではなく、自費も行為の立場に於て考へられねばならず、行
為的自費はつねに杜合的自費である。

       五

 我々はマルクス主義について簡畢にせよ論ぜねばならぬ順序となつた。マルクス主義は現代の
重要な思想として、市民的文化に於ける自由主義、個人主義、合理主義に反封してゐると見るこ
とは不常でなからうと思ふ。寧ろそれらに最も明瞭に反対してゐるのがマルクス主義であると云
ふことが出来る。しかし自由主義に反対するマルクス主義は人間的自由をも否定したのでなく、
却つて人間的自由のための闘寧であるとさへ考へられる。マルクス.は資本論の有名な箇所に於て
自由の王国といふものについて述べてゐる。自由の王国を音現するための自由主義の否定である.
これが一つの鮎である。次にマルクス主義が非合理主義を標梼せず、却つて合理主義を標樺し、
現代の種々なる非合理主義の哲学を批判してゐることも注目すべき・ことである。しかしマルクス
主義は徒衆の市民的文化に於て云はれたやうな合理主義、即ち抽象的な合理主義或ひは形式論理
山遥
雪】周一濁当月川1リョヨ“笥j。勺j月1やゃ。Yl …一L′t Y多
ノ       的な合理主義ではない。これまでの合理主義の立場からいへば、それはむしろ非合理主義である。
       蓋し何を合理性と考へるかは、論理の相違に應じて達つて来る。粁讃法を論理として認めるなら
       ば、マルクス主義は合理主義である。けれども形式論理しか論理はないといふ立場から見れば、
       それは非合理主義である。しかし頼語法は具鰹的な論理として、後の立場からは非合理的と考へ
       られる要素をも自己のうちに止揚したものでなければならず、徒つてそれは軍なる合理主義から
       直別されて寧ろ現晋主義と云はれるのが適切であらう。マルクス主義が今日多く見出される反科
       挙主義反技術主義に反対することは正常である。しかしそれだからと云つて軒語法を畢に客観主
       義と見ることは正しくないであらう。寧ろマルクス主義が果して客観主義にとどまり得るかどう
       かが問題である。なぜならマルクス主義が生産、行為、青践を根本的立場とする限り、それは畢
       なる客観主義ではあり得ない。行為といふものは畢に客観的に考へて行くことは出来ない。行為
       は一面どこまでも主観的なものである。もとより畢に主観的のものでもない。行為は主観的客観
       的なものである。問題はかくの如き主観的客観的なものを眞に具鰹的に捉へる立場が何であるか
       といふことであり、それが梓謹法であるとすれば、蹄語法は畢なる客観主義であり得ず、寧ろ現
        貸主義と呼ばれることが通常であらう。
一一】題頑遥
現代文化の哲畢的基礎
二一七

                                            二一入


       大

 さて文化とは如何なるものであるか。文化は人間の生産物であると考へられる。それは人間の
生産物として、つねに主観的なものである。客観的なものと見えるやうな技術的文化をとつて見
ても、そこには主観的の要素が含まれてゐる。技術は我々が或る目的に徒つて物を愛東すること
であつて、畢に客観的な自然法則が行はれるだけでは技術的なものは生じない。例へば水が高所
から落ちるといふことは自然法則であるが、この法例を利用して水力電気を動かすといふやうな
場合には、人間の目的設定が加はつてゐる。また技術は個々の人凋と結び付いて、性格化され、
個性化されてゐるといふところからも主観的な要素を含んでゐる。そして技術を廣義に解するな
らば、技術はあらゆる文化にとつて基礎的な意味をもつてゐる。
 もし文化が主観的客観的なものであるとするならば、それを軍に客観的現賓の反映であると考
へることはできない。反映といふ場合、客観的に輿へられた現晋が基礎となるのであるから、反
映説は客観主義の立場に立つてゐる。しかし他面そのやうな客観的と考へられをのは、ほかなら
ぬ現音であつて、それに対するイデオロギーは畢に主観的なものと見られてゐることにもなる。
淵八雲切訂九=だV十ユ巧暑確▲箋ご」魂ゝd._ ゝ
題■
反映諌は文化そのものについては却つて主覿主義的な見方であつて、文化の有する客軟性の垂さ、
厳しさは†分に認められない。次に反映詮は眞に生産の立場に立つものとは云ひ得ず、徒つて文
化の創造としての意味は認められない。ひとは蓼術の如きを創作であると云つてゐる。しかるに
反映説からは創作といふことは説明できず、畢に主観的なものと考へられるのほかなからう。更
に我々が全く新しいもの、未来に向つて、未だ存在せざるものに向つて意味を有するやうなもの
を生産することがあるとすれば、1かかることこそ今日の如き頼換期に於ては特に要求されて
ゐるとしたならば、そのやうなことは反映説から考へられないことである。未だ存在せざる未来
の反映が可能であるとするならば、そのとき反映はもはや畢に反映といふことであり得ない。文
化は「反映」に過ぎぬものでなく、「表現」と考へられねばならぬ。表現はつねに主観的客観的
なものである。反映詮は文化の理解ないし認識の立場に立つものであつて、それの生産、創造の
立場に立つものとは云はれないであらう。
 文化とは人間の作るものである。しかし我々はそこに止ることができない。言ひ換へれば、文
化を考察するに首つてそれを作る人間を前提しておいて願みないといふのであつてはならぬ。文
化が人間によつて作られるものであるとすれば、その人間は如何なるものであるかを考へねばな
現代文化の哲拳的基礎
二一九

                                             二二〇

らぬ。人間がまた音に作られるものなのである。人間もまた表現的なものである。人間は主観的
客観的なものとして表現的なものである。人間は表現的なものとして作られたものである。人間
は行為に於て経えず作られるのである。このやうに見てゆくことが文化を生産する立場から考察
する時の根本的な考へ方であつて、それが殊に現代のやうな時代に於ては必要である。しからば
主観的客観的なものを如何にして仝膿的に捉へることが可能であるか。畢なる主観主義の立場に
於ても、軍なる客観主義の立場に於ても、そのことが不可能であるのは云ふまでもなからう。そ
のためにはものが生れるところから捉へなければならない。人間が人間として生れるとき、つね
に主観的客観的のものとして生れるのである。ところで人間がそこから生れて来る析といふもの
                                                              爺
は何かといへば、それが杜禽であり、ちやうど自然がものを生むものと考へられるのと同様であ
る。「生む自然Lと云へば、そこから草や木などの生命あるものが生れて来る自然である。その
やうに我々は杜合の中から畢に生物的生命以上のものをもつたものとして生れて来る。人間の行
希は草や木の生長と同様の過程ではない。後者が有機的教展と云はれるとすれば、前者は軒謹法
的教展である。
 文化は我々の作るものであるが、作られた文化が生命的であればあるほど、それは我々に封し
て猫立なものとなる。拳術家が作つた作品は完璧であればあるほどそれ自身の生命をもつた濁立
なものである。眞に物を作るといふことは濁立なものが作られることである。それが創造の関係
である。そのやうな意味に於て人間は杜脅から生れ、杜禽のうちに包まれどこまでも杜曾と一つ
であり、杜合から規定されながら、他方杜合に対して濁立なものであり、逆に杜曾を規定する。
人間は杜合に働きかけることに依つて自分の生む所の杜禽を欒化する。さうすることに依つて人
間は新しいものとして生れ得るのである。人間が新しく生れる為には鉄骨を自分の行為に依つて
欒化しなければならない。人間は杜禽的行為によつてのみ現青的に新しくなることが出来る。新
しい文化が生産されるためには新しい人間が生れねばならず、しかも新しい人間は彼等の祀合的
行矯によつて祀▲曾を攣化することから生れて来るのである。
 かくして現代文化の哲学的基礎と云はれるものは、新しい意味に於ける創造の哲学であり、そ
れは歴史的行為の哲学にほかならない。マルクス主義経済の出教鮎とされてゐるやうな生産の立
場といふものをどこまでも徹底し、現音的に考へ直し、文化のあらゆる方面に於て接充すること
が必要である。この間凝は主観主義客観主義を共に包むやうな現音主義の立場に於て、従来いは
れた合理主義非合理主義を共に含むやうな辟謹法、乃至はロゴスとパトスとを綜合するやうな新
現代文化の哲畢的基礎

しいロゴスの展開にその解決を期待されねばならぬ.