知識階級に与ふ


 今日インテリゲンチャに対して要求されてゐるのは積極的になるといふことである。我々インテリゲンチャが現在あまりに消極的であると云はれるのは事実である、そして我々の誰も決してこの状態にみづから満足してゐるわけではないであらう。問題は、如何にして積極的になり得るかといふことである。その方法論、その技術、そのタクチックスが問題である。
 我々インテリゲンチャが積極的になるためには、我々自身を先づ肯定してかからなければならない。これは勿論如何なる場合においてもさうであるといふのでなく、特に今日の場合さうでなければならぬといふのである。或る場合には我々の自己自身を否定することが我々の積極的になり得る道であることもあるが、今日の場合においてはさうではない。インテリゲンチャは就中二つの点について自己自身を肯定することから出発する必要があると思ふ。
 第一に、我々は我々の過去に対する関係において肯定的でなければならぬ。現在流行してゐる議論には、インテリゲンチャが過去においてやつて来たことは悉く間違つてゐたのだから悔い改めねばならぬといつたやうなものが多い。ひとは云ふ、インテリゲンチャは西洋産であつた、これがいけないのだ、 ― インテリゲンチャは或ひは自由主義、或ひはヒューマニズム、或ひはマルクス主義にかぶれてゐた、これがいけなかつたのだ。かやうに云はれる場合、インテリゲンチャの或る者は彼に対して反感を覚え、他の者は自己に対して懐疑的にならされ、更に他の者は凡てに対して無関心にならされる。これは心理的に自然なことであり、そこにそのやうな議論が一見まことに意気軒昂たるに拘らず本質的に消極的である理由がある。それは心理的にさうであるのみでなく、理論的にも一個の抽象論であるに過ぎぬ。仮に我々インテリゲンチャは西洋崇拝であつたとする、 ― 果してさうであつたか否かについては批判の余地は十分にあるが、今は問題にしない ― しかしそれは間違つてゐたのではない。それは我々自身の発展のために、我々の民族の発展のために甚だ必要であつたのであり、極めて有意義であつたのである。また我々が自由主義者であつたとしても、人格の尊重、個性の発達が大切なことであり、およそ自由の実現が人類史の目的である限り、それは決して無意味なことであつたのではない。更に偶に我々がマルクス主著であつたとしても、今日の社会において階級の問題は重大な問題であるといふことが事実であるならば、それにも或る意味があつたのである。階級の問題を無視する限り全体主義は真の全体主義となることができぬ。個人の問題も階級の問題も存在しないのではなく、これらの問題の解決を含まないやうな如何なる解決の思想も真の解決の思想ではない。真の解決の思想は今日現実に与へられてゐないであらう、そのことがインテリゲンチャを消極的にしてゐる理由である。しかし個人の問題や階級の問題の解決に対する熱情 ― それがヒューマニスティックな熱情といふものである ― を我々インテリゲンチャが抱いてゐるといふのは悪いことではない。重要なことは、先づ自己を肯定することであり、この自己肯定を力として更に一歩前進することである。自己肯定から出発して積極性を展開してゆくといふのはヒューマニズムの精神であつて、その上での問題は、このヒューマニズムの精神を今日我々が現実に負はされてゐる民族の問題と如何に関係させるかといふことである。
 第二に、インテリゲンチャは社会に対する関係において自己を肯定しなければならない。我々インテリゲンチャは我々の存在の社会的意義を高く評価して好いのである。日本や支那の如き国においてはインテリゲンチャは特別の重要性をもつてゐる。インテリゲンチャの問題の解決に対して無力であるところに、私は日本の政治家の無力の一つの証左を見てゐる。真の革新にはインテリゲンチャの積極的な協力が必要である。インテリゲンチャの有するヒューマニスチックな感情はあらゆる革新に当つて地の塩である。しかるに今日困つたことは、若干のインテリゲンチャの間に大衆とインテリゲンチャとを抽象的に分離し、インテリゲンチャと大衆とは違つてゐると云つてインテリゲンチャを非難するやうな議論が現はれてゐることである。かやうな議論が今日実際に、意識的に乃至は無意識的に陥つてゐる誤謬は、大衆の知的水準を低く見過ぎてゐることであると共に、インテリゲンチャからその知性を奪ひ去らうとすることである。インテリゲンチャがその知性を失ふことが大衆と一致する唯一の道であるとしたならば、我々が大衆的になることにどれほどの価値があるであらう。我々は断じて知性を失ふべきでない、それが我々のヒューマニスチックな熱情である。必要なことは、ただこの知性を改造することであり、「知性の改造」といふことが今日のインテリゲンチャにとつて大きな問題である。インテリゲンチャが自己を失はないで自己を主張しようとする場合、最も重要な問題は知性の改造であり、これによつてのみインテリゲンチャは初めて積極的に本質的な意味において変ることができるのである。
 かやうにして自己を肯定したインテリゲンチャは、それと同時に我々の社会の現実そのものを肯定しなければならない。もとより肯定は無批判的であつてはならず、批判はいづれの場合にも必変なことではあるが、批判的否定に終らないで批判的肯定に終るといふことが大切である。現実の肯定が我々の出発点でなけれはならぬ。しかし私のいふ現実の肯定は現実への追随といふことと厳密に区別される必要がある。現実へ追随することからインテリゲンチャにふさはしい行動は生れて来ない。なぜなら現実へ追随することからは思想は生れて来ず、思想のない行動はインテリゲンチャにふさはしい行動とは云はれないからである。しかもまた現実を何等かの仕方で肯定することなしに我々は積極的になることができない。それでは如何にして現実は肯定されるのであるか。
 先づ現在日本が直面してゐる現実の重大性について認識をもつことが必要である。その重大性は量り難く深刻である。現実の重大性が何人にとつても決して無関係なものでないといふことは次第に明瞭になつて来るであらう。我々が如何に超然としてゐようとしても、如何に傍観的であらうとしても、いづれは皆一つの運命の中に捲き込まれねはならぬ事情にある。もし最後まで傍観的であることが可能であるとしたならは、現在傍観的であることも好いであらう。しかしいづれは逃れ難い運命であるとしたならは、これに対して積極的に起ち上り、現実の問題の解決に能動的に参与することがインテリゲンチャにふさはしいことであると云はねはならぬであらう。ただ運命のままに委ねるといふのは知性のことではない。
 我々の日本は重大な帰結を有する行動に向つてすでに踏み出してゐる。これはもはや過去に返すことのできない現実である。支那事変が如何にして起つたかといふことについては種々の議論があり得るであらう。インテリゲンチャはそれについて種々の批判をもつてゐるであらう。しかし我々の批判が単にその点にのみ向けられて、そこから進み出ることをしないといふことは許されない。歴史上の大事件は個人の動機を超えて発展するのがつねである。「歴史の理性」は個々の主体の動機を蹂躙して自己を実現する。すでに起つた事件についてその動機を穿鑿することばかりしてをれば却つて歴史の理性を見失ふ惧れがある。すでに起つてゐる事件のうちに何等かの歴史の理性を発見することに努めること、そしてもしそのうちにかやうなものが発見されない場合においては、それに対して新たに意味を賦与することに努めることが大切である。過去に対する批判も、このやうな歴史の理性の立場において初めて有意味であり、必要でもあるのである。大事件はすでに起つてゐる、すべての好悪を超えてすでに起つてゐる。これをどう導いてゆくかが問題だ。この大事件にどのやうな意味を賦与するかが問題である。歴史の理性の意味を明かにすること、そしてその意味賦与に向つて積極的になることがインテリゲンチャに対して要求されてゐる。
 日本が現在必要としてゐるのは解釈の哲学でなくて行動の哲学である。従来の日本精神論は殆どすべてが解釈の哲学であつた。それは日本の過去を考察することから日本の特殊性を見出して来ようとしてゐる。しかるに行動の哲学は過去からでなくて現在から出発する。解釈はそれ自身一般的なものである故に特殊性に固執する。これに反して行動はそれ自身特殊的なものである故に却つて普遍性を要求する。日本の行動の「世界史的意味」を発見し、この意味賦与に向つて能動的に行動することが要求されてゐる。行動の哲学は歴史の理性の哲学でなければならぬ。歴史の理性はもとより抽象的なものでなく、一定の時期において、一定の民族を通じて現はれ、一定の民族のうちに具体化されるものである。そして一つの民族は民族である故をもつて偉大であるのでなく、その世界史的使命に従つて偉大であるのである。
 かやうにして私は云はうと思ふ ― インテリゲンチャは自己自身と日本の現実との肯定から再出発しなけれはならぬ。自己の思想的現実の批判的肯定から、日本の行動的現実の批判的肯定から。