美術時評


     展覧会について

 今年もいつしか美術の季節になつた。いよいよ開かれ始める展覧会を前にして、素人は素人な
りで、彼自身の感想があるものだ。
 現在の美術展覧会はどのやうな意義を有するか、といふ質問を私は受けた。これは案外簡単に
答へられることであるかも知れない。今日の社会では美術も一種の商品だ。従つて展覧会は商品
としての美術の市場であり、もしくは見本市である。そこに入選することは或る美術家が商業的
価値を得る道であると考へられる。私はそのことが悪いとあながち云はうとするのではない。今
日の社会組織のもとにおいてはそれも致し方のないことである。文学者にしたつて彼の本の売れ
るのを望んでゐる。尤も彼がそれを願ふのは、単に金銭のためばかりでなく、自分の作品が広く
読まれたいからであらう。我々は同じ心を美術家に期待してよい筈だ。

77

 展覧禽は美術家にとつて作品蓉表の機関である。けれども同じ頚表機関にしても、美術展覚曾
と文学雑誌の如きとでは大きな相違のあることを見逃せぬ。美術品は印刷のできる文学作品のや
うに同一のものをいくらでも作つて手軽に普及することができない。美術寓眞の如きものが蓉達
したと云つても、それが原作の趣きを侍へ得る可能性は蓄音機やラヂオが書架における場合に比
して速く及ばぬであらう。従つて我々一般人が新しい美術品に接する機禽は展覧禽を措いて先づ
ないのであつて、そこに芙術展覧禽の全く特殊な存在意義がある。
 然しまた美術がそのやうな性質のものであるだけ、展覧曾と並んで現代美術館といふものがぜ
ひ必要なわけであらう。展覧禽に陳列された作品が一度頁却されて個人の私有に挿すると、再び
容易に我々の眼に入ることができない。このことは軍に金銭のためのみに製作するのでなく、自
分の作品が廣く鑑賞されることを欲する美術家にとつてはまことに心苦しいことである筈だ。美
術は今日商品であつて、しかも私有物であることを欲しない、現代の組合的矛盾は美術の場合に
他の蛮術におけるよりも明瞭に現れる。とにかく、展覧曾が軍なる商品市場もしくは見本市でな
く、作品蓉表の機関であるとすれば、常然その延長として、政府或は公共囲憶の作品買上、その
他何等かの形式によつて現代美術館の作られることが要求さるべきである。美術が杜禽的意義を
有するためには、それは始終誰でもの眼に解れ得る虞になけれはならない。
一時的な展覧禽は怪
常的な美術館を背後にもつてその意味を十分に現すといふものであらう。現代美術館といふ如き
ものがあつて初めて、今年の展覧曾の新作品がどのやうな方向に向ひつつあるか、或る美術家が
どのやうな蓉展を辿りつつあるか、などといふことも誰にでもはつきり掴み得るやうになる。立
派な蛮術家や美術批評家が出るために現代美術館の存在がどれほビ必要であることか。然るに美
術館と云へば古い物ばかり集つてゐる虞と考へられたり、或は軍に常設の展覧禽場に過ぎないも
のが「美術館」と呼はれてゐるのが今日の状態である。文化の創造と蓄積とが相互に作用し合は
ねはならぬやうに、展覧曾と美術館とは密接な関係に立つべきものである。
 新作品の薔表機関として現在の展覧曾はいろいろ問題にされてゐるやうだ。審査のことも大き
な問題であらう。然しもつと自由な展覧曾、個人展覧曾、或るグループの、或る運動の展覧曾な
どが活潜に、頻繁に催されることを考へるべきだと思ふ。さういふものが簡畢にできる組織が作
られなければならない。現存の大展覧禽よりもかかる小規模の展覧禽の方が賓際において現代の
緊要な問題なのではないであらうか。
美術時評
一四五

一四六
     美術批評について

 すぐれた美術批評家が存在しない、美術批評は一般に面白くない、と云はれてゐる。我々の眼に
解れる範囲のものは、殆ビ凡てが印象批評に限られてゐる。それが必ずしも悪いと云ふのではな
い0唯それが常然のこと、自明のこととされてゐるのに封して疑問をもつのである。そのやうな
印象批評の多くはあまりに文学的だ。もつと美術の固有な原理に深入りした批評が欲しいと思ふ。
 現在美術批評を多少とも専門的にやつてゐる人には美術史家が少くないやうである。然るに、
過去の作品の批評と現代の作品の批評とは同じ機関、同じメカニズム、同じ才能を要求するもの
でなく、その間にはおのづから差異がなけれはならぬであらう。「歴史家」と「批評家」とは賓
際において批評の二つの達つた範疇に属してゐる。過去の作品の批評にすぐれた者が必ずしも現
代の作品の批評に成功するとは云へない。そこで文学の如き場合では、文学史家と文嚢批評家と
はおのづから直別されてゐるのが普通である。これと同様のことが美術の場合にもあるべき筈で
あらう。
 美術においてはいはゆる1鑑賞家」といふ特別のものがあり、さういふ人がまた美術批評家と
して現れてゐる。鑑賞家は趣味の人である。然るに趣味といふものはその本性上既に在るもの、
完成された過去の作品に封して、より親和的であつて、新しいもの、生成しっつあるものに封し
てはあまり親しみを感じないのがつねである。それが主として過去の作品に向ふといふ鮎におい
て鑑賞家の趣味は美術史家の心と同棲である。
 かくしてすぐれた「批評家」が存在しない現状においては、美術における新しいもの、飛躍的
なもの、革命的なものは十分に注意されず、理解されず、債植付けられず、そのやうなものが自
然に抑塵されるといふことがあるであらう。蓋し批評家の批評家としての仕事は、まさに新たに
生成しっつあるものに心をくはり、その熱心な、忠賓な味方たるところにある。
 今日の美術批評家は作者のために書いてゐるか、鑑賞者のために書いてゐるか、と云へば、そ
のやうなことは恐らく明瞭に自覚されてゐないのではなからうか。もちろんそれでもよいので、
眞の批評は両者に共に役立ち得る筈である。然しそのやうな立派な批評は殆ビ見首らない。技術
批評のみが作者に役立つわけでもなく、また技術批評は鑑賞者にとつて役立たないわけではなか
らう。文学的な批評、歴史家的な批評、趣味批評などに比して、技術批評が一層盛んになること
は確かに望ましいことである。それには美術家自身がもつと批評の筆をとることがよいとも考へ
美術時評
一四七

                                            一四入

られるであらう。文学の場合では創作家が批評を書くことが多く見られ、あまりに多過ぎるほピ
であるに反して、美術家自身が批評を書くことは稀である。この差異には雷然の理由もあること
であるから、どうしてもほんとの美術批評家が出ることが必要になる。それには色々なこともあ
らうが、前にも云つた如く、現存の大展覧合のほかに、個人展覧曾、或るグループの、或る運動
の展覧禽などが更に活潜になり、美術批評家の活動が始終要求されるやうになることなどもその
一つに敷へることができよう。
 峯術を杜曾生活との閲聯において批評するといふことは、今日文学などの場合では殆ビ常識的
なことにまでなつてゐるに拘らず、美術についてはこのやうな批評が殆ビ見られない。いはゆる
杜禽的批評がよし凡てでないにしても、この方面が特に開教されることは目下の急務に相違ない。
今後ビのやうな新しい批評の方法が生れて来るにしても、この杜曾的批評の方法を無税すること
はできないと思ふ。それとも関係して、今日ありふれたあまりに自由主義的な批評とは異つて、
一層明瞭な立場乃至原理からの批評が見られないのも寂しい。

     美術家の集圃について
 二三年前、文壇解治論といふものが出て、文壇は解消しっつあるとか、解消せしめてよいもの
であるとか、いふやうな議論で賑はつたことがあつた。現に文壇といふものは存在しないではな
いが、その勢力はもはや昔日の如きものでなく、今日文学の方面において脅威を感じられてゐる
のは文壇といふ存在ではなくて、寧ろヂャーナリズムの勢力である。
 文壇にくらべると蓋増といふやうなものは現在も比較にならぬほど大きな勢力をもつてゐるや
ぅに思はれる。これには色々理由があるであらうが、その一つとして考へられることは、重増と
いふものが作品番表機関である現在の大展覧曾を中心として構成され、その道の大家や先輩はそ
こで審査員としての樺威と権力とを有し、そしてそのやうな有名な展覧曾に入選することが美術
家たちにとつて世に出るための唯一秒手段と見られてゐるといふことである0そのやうな蓋壇は
若い作家に封して、ずいぶん大きな威力をもつてゐる。そして若い作家の殆ビ凡てがそのやうな
展覧曾を唯一の目標として制作してゐるといふ有様である。然るに帝展などを見るに、そこに何
も共通の立場の自覚があるわけでなく、一貫した指導原理があるわけでもない。蓋増といふもの
がそれにも拘らず賓際に勢力をもつてゐるために、美術における新しい精紳、新しい傾向が知ら
ず識らず抑願され、活滋に伸長し得ない状態にあるのではなからうか。
美術時評
一四九

                                           一五〇
私は今の董壇といふものがもつと分化することが望ましいと思ふ。それには展覧禽の組織が攣
らなけれはならない〇一定の精神、一定の立場のもとに美術家が集つて、それぞれに展覧禽をも
つやうになることが望まれる0さうすれば、一の集囲と他の集囲との間におのづから競争も行は
れ、美術界に潜刺とした客気が生じ、新鮮な拳術も生れて来ようといふものだ。このやうにして
現在の董壇が分化するやうになると、蓋増といふ特殊な存在を封象とするのでなしに直接に杜曾
に訴へょうとする蛮術も自然に出て来るであらう0初め文展が出来たとき、その目的は表杜曾
に美術趣味を普及するといふことにあつたやうである0然るに今日ではそのやうな美術教育的見
地から云つても、あのやうに綜合的な、寧ろ混合的な大展覧曾は沌はや意義が少くなり、却てそ
の精紳なりその傾向なりのはつきりした個人的、集囲的展覧曾がそれぞれに開かれるといふこと
が、杜曾の美術に封する理解を深める↓にも扁役立ち得るのではないかと思はれる。董増の革
新は手近かには展覧合の改革の問題である。
 それにしても今日の実術家は杜曾に封してあまりに無関心ではないであらうか。その鮎で美術
家は遅れてゐはしないか0その人々にとつては現存の董増が組合よりも大きな関心の対象である
かの如くである0然し畢にそれはかりではない、現代の杜曾において美術家は杜曾のためにでは
瀾瀾磯磯簡潔薮…尊漆ぜ≦れ

なく却て少数の個人のために制作してゐるのである。これには美術家の生活問題といふこともあ
るわけである。美術制作が直接に杜曾のためになされたやうなギリシア時代のことをひとは想ひ−
起してみるがよい。美術が柴えた時代には、それはいつでも牡曾的意義をもつてゐた。今日美術
家は自己の作品に政令的意義を蹴興するやうに努力することが特に大切であらう一。そのためには
作家に普通見られる非祀曾的な生活態度が改められ、活きた杜曾ともつと接解し、交渉して、物
の新しい見方を学ぶやうになり、また美術についての杜曾的批評といふものが突込んで行はれ、
作家の考へ方が欒化させられることも必要である。これらのことは作家自身の生活問題とも関係
して来ることであらうが、現在の最も大きな問題でなければならぬ。いづれにしても、美術のみ
が牡曾の攣化から超越してゐるといふことはあり得ないのである。

     美術ファンについて

 展覧曾に集つて来る観衆の種類について統計をとつて数字的に直別してみるといふことも面白
いであらう。そしてそのやうな観衆が、その展覧合金慣についてどのやうな印象を受けたか、ど
の作品に最も感心したか、或る一定の作品をどのやうに見たか、などといふことについて統計的
美術時評
一五一

                                             一五二
に調べてみるのも興味があり、また有名なことであらう。かくの如き統計的調査が一度は行届い
てもよい0展覧禽の観衆は或る意味では杜禽撃的な、統計的な封象であるからである。
 この観衆は種々雑多な要素からなつてゐるやうに見える。責際、帝展の如き大展覧曾になると、
何となくお祭の気分がある0それを年中行事の一種の美術祭と見れば面白くなくもない。作品の
陳列もお祭にふさはしく賑やかだ。一般観衆は浮動的で、その作品受容の仕方も曖昧なものであ
る0かやうな展覧曾にあつては、かの「曾場垂術」と呼はれるが如き、展覧曾場における陳列の
場合の致果をのみあてこんだ、従つて唯ひとの注意を惹くことを目差したやうな作品が作られる
といふ傾向が自然に生じて来るであらう。勢ひ質よりも形の大き碩ものといふことになる。とに
                                                            「
かく陳列の教が多いので、一般人にはおのづから好奇心といふやうなものが先に立つ。尤もデパ
llの如く、品が多いから人が澤山集まつて来るのかも知れない。制作品の多くは、それ自身の
債値によつてといふよりも、あの展覧合そのものがもつ賑やかさ、華やかさによつて人を引いて
ゐるやうにも感じられるのである。
 固有の意味における美術ファンと云へば、美術についてのアマチュア乃至デイレツタントのこ
とを云ふのであらう0自分でも多少檜筆の心得などがある人である、美術書や美術革具などを好
¶‖
きで集めてゐる者である。蛮術を鑑賞し享受するのみでなく、自分でも多少それにたづさはつて
ゐる襲術愛好者がデイレツタントである0さすが日本は美術囲と云はれるだけに、かかる人間の
教は多く、展撃曾の観衆の重要な要素をなしてゐるやうである0彼等が現在の美術の最も有力な
支持者層である。たいてい有閑階級に属し、従つて多くのサロン的傾向をもつた彼等の美的趣味
と美的好奇心とによつて今日の展覧曾と美術作品とは主として支へられてゐるやうに見える0
 デイレツタントは現在の美術にとつてこのやうに必要な存在であるが、また多少危険な存在で
もある。ゲ土ノが書いてゐる、1事術は自分自身に法則を輿へ、時代に指令する0デイレツタン
ティズムは時代の傾向に追随する0」デイレツタントは前方を見ることをしないで、自分たちの
近くの出来事はかりに眼をやつてゐる0彼等は好い拳術家を自分たちの側に受入れることをしな
いで、反封に奉術家を自分たちの程度にまで引き↑げようとする0蛮術家の人気といふものは主
として彼等によつて作られる。彼等の間で話される批評が人気の源泉である0また自分の判断よ
りも人気に従ふのがファンの性質でもある0蛮術家がそのやうなファンに取巻かれて、人気があ
るといふことは、それ自虚としては悪いことではないにしても、危険なことである0そのとき奉
術家は自分自身の上にしつかり立つて拳術の最高の目的をめぎして努力することを忘れて、デイ
美術時評
一五三

                                           一五四

レツタントの趣味に追随するといふやうなことが起りがちだからである。
 現在の美術はその観衆の側から云つて多くは有閑階級的或はサロン的である。そのことは作品
そのものの性質乃至傾向にも相應してゐるのでないか。美術は本来そのやうな約束のものなので
あらうか。我々はそのやうには信じないのである。

     この秋の収穫

 この秋での収穫はときかれると、私には答へる資格があまりないのである。私の見たのは二科
と院展だけで、それも檜室の部を一通り見ただけである。専門的なことはよく分らず、私として
                                                                                                                                                 叶
                                    浄
はただ二三の感想を述べてみるほかない。
 二科ではやはり第二室の同願陳列が興味深かつた。記憶に残つてゐる作品が多かつたが、中に
は最初の時ほど傾倒し得ないものもある。取立てて云へば、故関根正二氏の「信仰の悲み」なビ
今も特に心を惹かれるものである。これは象徴的な作のやうに覚えてゐたが、今度見るとどうし
てなかなかリアルな感じがする。寓責的なものだけがリアルなのでなく、かういふ意味のリアリ
ズムといふものがあるのである。考ふべきことだ。
 展覧禽を一巡して得た一般的な印象は、現在の宣壇も文壇とだいたい同じやうな様相を示して
ゐるといふことであつた。給童と文学とでは無関係なやうに見えても、同じ時期の蓼術は相似た
傾向を現すものである。いつたいどうなるのかといふ不安に動かされる0高名な作家は既に完成
し、と同時に何となく行詰つてゐるやうであり、新しい作家には底力がなく、まや」れといふ確
信的なものも掴まれてゐないやうである。ちよつと目を惹くものがあるにしても、さてこの秋で
の収穫はときかれると、結局大家のものを挙げねはならぬことになる0いはゆる1大家全盛Lと
いふのであらうか。明かに展覧禽用の萎術といふ感じを受ける作が殖えてゆくやうである0新人
においてさういふ傾向が特に目立つのは自信のなさを示すもので心細いことだ。
 安井曾太郎氏の作品は、去年の「薔薇」もはつきり頭に残つてゐるが、今年の1奥入瀬の渓
流」も好かつた。同願陳列に出てゐる氏の作にはあの時分ほどの感銘は受けなかつたが、氏の近
年の作品には敬服する。先日も或人が安井氏は日本蓋の境地に進みつつあると語つてゐるのを開
いたが、簡軍にさうとは云へないけれども、安井氏なビ洋室を突き切つて、固有のものを出すに
至ることのできる人ではないかと思ふ。西洋風のことをやつてゐる者も、年齢をとると日本流の
滝のに還るといふことは、他の世界でも見られるところであり、それをすぐに進歩であるかの如
美術時評
一五五

                                             一五六

くに云ふことが近頃特に流行してゐるやうだが、私は必ずしもさうとは考へない。さういふこと
は却て作家の生命力の稀薄、薔展力の限度を現す場合が多いのである。洋室家に日本的なものが
出て来るとすれは、それは作家が自分を生かし切つたとき、洋蓋の道を突き切つたとき、おのづ
から出て来るものにして初めてほんとに債値がある。安井氏にさういふことを期待するのはよか
らう。ほかに山下新太郎氏の「立秋」、有島生馬氏の「蓋」など、取り上げれはいろいろ議論ので
きるものであらうが、いづれにも別々の意味で不満がある。それらよりも曾宮一念氏の作品「て
んしんもも」等の如きが綺麗で印象に残つてゐる。石井拍亭氏の「二科二十人像」は記念的なも
のとして興味があつたが、何でも相常に重きこなせる石井氏の腕を見せられただけのことで、感
動はない。
 院展では二科を見たときに感じた不安や焦慮の如きも感じられなかつた。ただ今年は横山大観
氏の「晶の書」ょりも前田青邸氏の「鵜飼」が、小林古径氏の「弼勒」ょりも富田漢仙氏の「御
室の櫻」がより好かつた。それにしても日本蓋の将来はどうなるのであらうか。この頃のファッ
ショ的傾向によつてそれは再び盛んになるであらうか。私にはどうもさうは考へられないのであ
る。本年の官展においては少しはいはゆるファッショ拳術が見られるであらうか。
【周瀾瀾憫澗召頂周那表1uVr。−頴j.†箋 メパJ題一一層u廿凋欄