青年に就いて
最近青年といふものが重大な問題になつてゐる。青年婿校、青年官吏の問題など、最も注目さ
れるものである。青年とは如何なるものであり、そしてそれが何故に今日特に問題になるのであ
らうか。
青年とはもと人間の年齢を表はす言葉である。人間の年齢は普通年毎に数へられてゆく。しか
dしそれは本来畢にこのやうに直線的に進行する時間としてのみ問題になるのではない。直線的に
進行する時間が囲項的に若しくは客間的に経つて一年代を形作る。それが或ひは少年時代と呼は
れ、或ひは青年時代或ひは老年時代、と稀せられる。年齢とは具慣的にはかくの如きものである。
各人は自己の歴史においてそれぞれ自己の年齢、例へば自己の青年時代をもつてゐる。人間の歴
史は一年一年と書かれるのでなく、むしろ少年時代、青年時代といふ風に書かれるのが普通であ
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らヽフ0
ところで今日青年といふものが問題になるのは、かくの如き個人の年齢もしくは個人的意味に
ぉける青年ではない。問題になってゐるのは却つて杜曾的意味における青年である0杜曾的意味
における青年は世代を表はす。ほぼ同年齢の多数の個人が囲項的に若しくは客間的に、杜曾的に
纏つて一世代を形成してゐる。若い世代といふのがそれである。それは若い世代として直線的に
若しくは時間的により先の世代としての老人に封してゐる。杜曾的に問題になるのはかくの如き
世代としての青年であり、しかもそれが問題になるのは歴史の同一時期に畢に一つの世代でなく、
青年と老人といふ風に相異る世代が同時に存在するためである。−桝
人間は杜曾的存在であると云はれるやうに、各人はそれぞれの世代に属してゐる0個々の青年
は世代の意味における青年に属してゐる。個人の存在が杜禽から理解されねはならぬやうに、各
人の年齢も世代から理解されねばならぬ。一つの世代に属する人間は共通の運命を負ひ、共通の
問題をもつてゐる。それ故に今日青年の問題は青年将校や青年官吏の岡垣として特に表面に現は
れてゐるとはいへ、彼等の問題のうちには一つの世代に共通の問題が含まれてゐると云はねばな
らぬ。同様の問題は青年学徒にも、青年萎術家にもある0固より彼等の問題にはそれぞれ特熱性
題
がある。その時殊性の認識も必要であるが、同時に問題の共通性の自費が大切である。有年脾揆
ゃ青年官吏の問鞄は我々にとつて無税することのできぬ重要性を有すると共に、彼菅自己の圃
題を世代の共通の問題のうちにおいて自覚することを要求されてゐるのであつて、かかる自費を
鉄くとき彼等の如何なる思想も抽象的となり、幻想的となる。青年牌校や青年官吏は自己の杜曾
的地位の特殊性のためにかくの如き抽象乃至幻想に障り易い危険があることに注意しなければな
らぬ。
世代としての青年の基礎に人間の年齢としての青年が考へられ、そして後者は人間の身饅とい
ふ生物学的なものに還元して考へられる。このやうに青年といふ概念の根抵に生物学的自然的な
ものを基髄として認めねはならないにしても、青年の閏超を畢に生物学的見地から考察するとい
ふことは間違つてゐる。かくの如き生物学主義は必然的に畢なる非合理主義に障る。我々は現代
のファッシズムが人種といふが如き生物学的なものによつて歴史を説明しようとする生物学主義
であることを知つてゐる。青年論も民族論と同様生物学主義に障る可能性があり、かくして青年
論自慣が今日の思想的状況においてファッショ的非合理主義の一形態となつてゐる場合が砂くな
い。そこに青年といふ最も魅力ある題目に伴ひがちな危険があるのである。我々はむしろ逆に、
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世代といふ本来歴史的祀曾的なもののうちにおいて年齢としての青年の問題を考へ、そして人間
の身憶といふ生物学的なものをもかやうな歴史的世界から考へてゆかなければならぬ。身鰹と錐
も畢に生物学的なものでなく、歴史的なものである。個人の身慣は世代といふが如き杜曾的身憶
の一分身として歴史的世界から生れるのである。青年論において生物学的非合理主義を警戒しな
けれはならないやうに、また心理学的抽象論が排斥されねはならぬ。青年の一般的傾向としてそ
の純情性、浪浸主義、夢想性、非賓際的傾向、理想主義、主観主義、等々、が挙げられる。確か
に青年には一般にそのやうな心理的傾向が認められるにしても、現賓においてはそのやうな傾向
は種々なる杜禽的條件に制約されて純粋に自由に現はれることなべ、却つて隠蔽され、抑歴され、
萎縮させられ、無力にされてゐることが稀でない。心理学的な、しかも個人心理学的な抽象論に
ょつて現資の青年の問題を片付けることは許されない。簡畢に考へても、今日我が囲において
「青年」として問題になつてゐるのは年齢的にはだいたい廿威から四十歳までを、場合によつて
は更に四十五歳位までを含み、従つて生物学的もしくは心理学的にはもはや「青年らしさ」を越
してしまつた老をも含んでゐる。四十歳と云へば、昔は初老と呼ばれた。ところが現在ではその
年齢の者も少壮婿校とか少壮官吏とかの列に加はり、「少壮」と考へられてゐる。年齢の閏壇が
。.孝j」ョj題叩頭
世代の問題として杜禽的歴史的に考察されねばならぬことは、これによつて理解され得るであら
〜フ〇 一
丁
かくて世代の形成においては杜曾的曹素が働いてゐる。デイルタイによれば、世代が形成され
るに嘗り、第一にそこに輿へられてゐる知的文化の遺産、第二に周囲の生活、杜禽的、政治的、
その他種々の文化的状態、特に新たに加はつて来る知的諸事賓といふ二つの群の制約が存在する。
これらの諸制約の影響のもとに、これらによつて規定された同質的な諸個人が一世代として形作
られる。一つの世代とは同じ経済的、政治的、杜禽的状態の中から生れ、類似の経験、感覚、教
養を具へ、同時に生活する諸個人の集囲を意味する。かくの如き見地から現在の日本を観察する
とき、そこに三つの世代の直別が認められるであらう。第一には年齢的にはおよそ六十歳を過ぎ
てをり、近代的日本の建設に直接に参加した人々。最も明確なタイブとしての「自由主義者」は
この世代に属する者に比較的多い。第二には、年齢的にはそれ以下の、そしてだいたい四十五歳
乃至四十歳位までの人々。先輩の創始した基礎の上に比較的安全に立身出世することができ、殊
に日露戦争後における日本資本主義の上昇薔展の好況期を青年時代に経験した人々である。第三
には、今日のいはゆる「青年」。即ち日本資本主義の矛盾或ひは行詰りが漸く穎著になつた以後
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に成長した人々である。それは大正九年を境として考へることができる。この年は日本祀曾経済
史にとつて注目すべき年であり、その四月、世界大戦以来未曾有の好景気に悪まれて来た我が図
の資本主義は果然大恐慌に襲はれた。日本最初の大衆的メーデーが行はれたのも、日本杜禽主義
同盟が成立したのもこの年のことである。その頃からマルクス主義が次第に普及するやうになつ
た。かくて今日のいはゆる青年にとつて、従来の知的文化の遺産のほかに、「特に新たに加はつ
て来た知的事賓」といふのは、マルクス主義であり、更に最近のファッシズムである0これらの
思想はこの世代の形成に種々の仕方で重要な影響を及ぼしてゐる。この世代は自己の運命として
資本主義の矛盾に最も甚だしく悩まされ、この矛盾を杜曾的にも思想的にも何等かの仕方で解決
することを自己の問題として輿へられてゐる。
シャトブリアン(一七六八−一入四八)は、彼の五十歳の頃、次のやうに書いた。「昔の老人は
今日の老人ほビ不幸でも孤濁でもなかつた。彼等は、生きながらへて、彼等の友人を失つてしま
ったにしても、少くも彼等の周囲の事物は殆ど何等攣化してゐなかつた。青年時代は離れ去つた
にしても、杜禽に封しては彼等は疎隔を感じなかつた。今ではこの世の中の落伍者は、畢に人間
が死んでゆくのを見たはかりでなく、諸観念が、原理、風習、趣味、快欒、苦悩、感情が死んで
ゆくのを見た。何物も彼が知つてゐるものに類似してゐない。彼は彼がその眞中において自己の
生涯を終る人類の一つの達つた人種である。」賓際、革命後の新しいフランスとアンシャン・レ
ジムのフランスとの間の対照には穎著なものがあつた。深刻な杜禽的危機を経験した者は誰もシ
ャープリアンが表白したやうな感情をそれぞれの立場から懐くであらう。老人が自分を「達つた
人種」として感ずるのみではない、青年はまた青年で、自分を「違つた人種」のやうに感ずるの
である。アメリカの哲学者ウィリアム∴ンエームズは云つてゐる、「我等の間で六十歳の者は自
分等のために無数の影響によつて作り出された知的風土の捉へ難い攣化を経験した。それらの影
響は過去の世代の思想を次の世代に封して他の人種の言葉であるかの如く疎遠に見えるやうにし
た」。同じやうに現代日本の青年も彼等の住む「知的風土の攣化」を経験してゐるのである。か
くの如き知的風土の攣化を洞察することなしに、下剋上などといふ言葉を持ち出して彼等に教訓
しても、恐らく「他の人種の言葉Lとしてしか感ぜられないであらう。
ニ
すべて世代の形成においては人間が特にその青年時代に如何なることを経験するかが決定的に
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重要な意味をもつてゐる。蓋し青年時代は一生において感受性の最も想い時であり、また最も攣
化し易い時である。オルテガは世代の賛膿を科挙、趣味、倫理等の諸表現の根抵に横たはる根源
的な、分割されぬ仝慣性における生活感情と見傲し、これを「生命的感受力」と名付けてゐる。
確かに、一つの世代は知識の方向を意味するよりも感受性や意欲の調子を現はすであらう。停統
に累せられることの少い青年は感受性も新鮮で、意欲も活瀬である。同じ事件に封しても、青年
と老年とでは、印象される強さも影響される仕方も異つてゐる。それ故に世代の責慣が生命的感
受力にあるとするならば、青年こそ世代中の世代と呼ばれてよいであらう。世代が世代として問
題にされるのは根本においてただ青年即ち若い世代であり、同時に存在する他の世代もこれに封
する関係において間超にされるのがつねである。若い世代は新しい感覚と新しい意欲とをもつて
現はれてゐる。ここに新しいと謂ふのはもとより軍に生物学的意味においてではなくて歴史的意
味においてである。世代の形成にあたつて祀禽的諸條件が重審な作用を及ぼすことについては既
に述べておいた。
しかるに世代の賛憶が右のやうにパトス的な統一にあるといふことは、反面から考へれは、歴
史の一定の時期において一つの世代は必ずしもロゴス的な乃至イデア的な統一を有するものでは
、,一.題.ヨ
ないといふことである。今日の青年の如き場合がそれである。現代杜曾の不安、現代文化の混乱
の中にあつて、敏感な青年はそれ自身がかくの如き不安と混乱との象徴である。このことは特に
青年インテリゲンチャにおいて甚だしい。若い世代がかやうに不安と混乱とにあるといふことは、
彼等の先輩が嘲笑して或ひは教訓して云ふやうに彼等の思想が未熟であるためではない。反封に
早熟こそ現代のひとつの特徴である。青年はその早熟によつて所謂青年らしさを失ひさへしてゐ
る。彼等の或る者は人生及び杜曾の曲折を経験し、そのどん底を憶験してゐる深さにおいて日本
資本主義の前時期に生長した彼等の先輩の想像し難いものがあるであらう。前世代の人間が好ん
で語る探さには底がある。今日の青年の見詰めてゐるものには底がない。しかも早熟な今日の青
年にとつての不幸は、彼等が眞に成熟する暇を有しないといふことである。杜曾的不安と文化的
混乱と、一切の物が動揺する速度は、彼等にとつて成熟することを不可能ならしめてゐる。成熟
してゐるかのやうに見える青年も、むしろ畢にマンネリズムた絶つてゐるに過ぎない場合が多く、
新しい世代の意欲を慣現し、これを思想的に確立し、この世代に封して指導力を有するものでは
ない。このマンネリズムは成熟することのない早熟の現はれである。今日の青年の任務はかやう
なマンネリズムから脱脚して自己の根源的な感覚と意欲に還り、自己の世代の問題の解決に努力
畠円年に就いて
することでなけれはならぬ。世代の問題といふのは資本主義の杜曾及び文化における諸矛盾であ
る○この世代そのものが頚生的にはかくの如き諸矛盾の中から生れたものである。自己の世代に
歴史的に課せられた問題を掟げて起つといふことがこの世代を世代として眞に完成せしめる所以
である0その問題が大きければ大きいほどその世代は輝しいものとなり得る可能性を有するので
ある○すべて偉大な人間は偉大な問題を提げて現はれて来る。問題の偉大さが彼の偉大さの一つ
の尺度である.今日の青年の多くは自己に輿へられた問題の前にただ不安と焦躁とに戦いてゐる。
問題は彼等にとつてあまりに大き過ぎるのであらうか。それとも問題解決の條件が未だ熟してゐ
ないのであらうか。早熟な青年が気力と冒険心とに乏しいことも奉賛である。
もちろん世代の間嶺は畢に客観的な杜禽の問題ではない。「世代」の概念は本来歴史の主慣を
現はし、かかるものとして軍に客観的に考へられる「時代」の概念とは直別される重要な意味を
もつてゐる○世代の問題は主憶的な問超である。かやうな主憶的な問題として世代の問題は、現
代の不安のうちに自己の人格をも崩壊せしめた青年が新たに生れ吏ること、現代の混乱のうちに
成熟することを得ないで無性格になつた青年が新たに人間の観念を確立することである。自己の
世代が成熟して眞に表現的になり、人間歴史のうちに位置を獲得することは世代の関心でなけれ
はならぬ。現代の青年のうちから人間の新しいタイブが作り出されることが要求されてゐる。し
かるに新しい人間が生れるとして、彼がその中から生れて来るところは杜曾である。人間は杜脅
から生れる。従つて新しい人間が生れるためには杜曾が攣化しなけれはならぬ。人間は新しい人
間として生れるためにみづから杜曾に働きかけてこれを攣化しなけれはならぬ。即ち世代が新し
い人間のタイブとして自己を確立するといふことと杜曾に働きかけてこれを攣化するといふこと
とは決して無関係なことではない。一方青年は自己を新しい人間として確立するのでなけれは杜
曾を攣化することができぬ。他方杜曾が欒化するのでなければ青年は自己を新しい人間として確
立することができぬ。人間は杜禽的に活動することによつてのみ自己を形成し得るのである。
「性格はただ世界の流のうちにおいてのみ形成される」とゲーテは云つてゐる。祀曾は我々がそ
こへ出て来て芝居をして見せる軍なる舞董ではない。この舞重から退場して我々は何虞へ行くの
であらうか。やはり杜曾である。人間は祀脅から生れて祀曾のうちへ死んでゆく。杜禽を軍に我
我に封してある世界と考へることは主観主義にほかならぬ。我々が主観として杜曾は我々に封し
て立つ客観に過ぎぬのではない。人間は畢に主観でなく同時に客観であるやうに、杜含も主観
的・客観的なものである。歴史もまたかかるものであり、従つて「世代」と「時代Lとも一つに
虫円年に就いて
二三四
考へられる。青年にとつての問題は軍に彼等のみの問題でなく、また仝時代の問題でもある0
ところで今日の青年にとつての不幸は、その世代が一つの世代でありながら世代として確定さ
れてゐないといふことである。そのことは一般には、この世代にパース的な統一が認められるに
しても、ロゴス的な乃至イデア的な統一が未だ形作られてゐないことを意味する。そしてそれは
先づ特に思想と行動との帝離において現はれてゐる。例へば、今日我が囲の青年インテリゲンチ
ャほビ行動について、杜禽について、辟忍法について論ずることを好むものは稀であらう0しか
も彼等の大多数にとつては結局、行動も、杜含も、辟讃法も、ただ思想において存在するのみで
ぁる。これに封して一部の賛際に行動力を有する気力も冒険心も誤る青年は現代の問題を適切に
解決し得るやうな思想に軟けてをり、この世代の指導者となつてこれを統一することができない0
思想と行動とが一定の方向に統一されない限り世代は不確定に留つてゐる。次に、この世代はそ
の青年時代に日本資本主義杜昏の矛盾乃至行詰りに出合つたといふ事資によつて、根本において
はほぼ共通の性格を有するに拘らず、構成上は更に多くの層に分割されてゐる。それは年齢的に
見ても、二十歳位から昔は初老と呼ばれた三十歳位に至るきりで、かなり永い期間を包括してゐ
る。しかるにデュルケームがその『分業論』の中に掲げた法則によれば「融合が高度の種類に虜
してをればをるほど、それは一層急速に進化する、なぜなら統一が一層柔軟になるから」。一つ
の世代から他の世代へ、組合的攣化は一層急速になり、世代交替の速度は増加する傾向がある。
賓際、今日、我が団において「青年」とか「少壮」とか云はれて間超になつてゐるもののうちに
は、その二十代に殆ビ映董を見たことのない者もあり、彼等と現在二十代の青年とは或る意味で
は全く異る世代と考へられてよいほどの相違がある。かやうに異質的な層を包括することによつ
て今日青年と稀せられる世代は不確定にされてゐる。そのうち年長者が年少者の指導者となつて
世代を統一して行くカは微弱であり、むしろ年長者が絶えず新たに現はれて来る層に引摺られて
ゐるといふ有様である。杜禽及び文化の動揺のためにこの世代のうちに倖統の成熟する暇がない
放である。もとより青年が青年であるのは未だ完成してゐないからであると云へる。しかも老人
には老人としての完成があるやうに青年には青年としての完成があると云ふこともできるであら
ぅ。彼等の活動が眞に有意義であるためには既にそのうちに→定の方向が支配してゐるのでなけ
れはならぬ。完成もしくは成熟への傾向性の統一が見出されるとき、世代は確定される。それ故
に今日の青年の問題は本質的に世界観の問題に関係してゐることが知られるのである。自己の世
代の問題に正確に照應する世界観の把持が青年にとつて急務となつてゐる。
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三
しかし青年は世代として不確定であるにしてもなほ老人に封しては青年として確定されてゐる
と考へられる。そこで今日の青年の問題は青年と老人との問撞であるかのやうに見える。賓際、
我が園は老人囲であると云はれるほど、杜曾において老人の占めてゐる地位は大きい。かやうに
云へは、我が国では老人の方が偉いので、若い者は駄目ではないかと云ふ者もあるであらう.確
かにそのやうに云はれ得るところもある。けれども老人がどれほビ偉いと云つても、時代に封す
る感覚において青年と比肩することができないであらう。所謂時局認識の相違も畢に知識的なも
のでなくて、このやうに感覚の相違を意味してゐる。また現在の若い者が駄目であるのは彼等に
然るべき地位を輿へて活動させないといふことにもよるのである0人間は誰でもたいていその地
位に就けはその地位にふさはしい人間になり得るものである。青年は軽率だとか無謀だとか云は
れるけれども、その青年も貞任のある地位に立ては無謀でも軽率でもなくなるものだ。ところで
今日我が国において青年が特に問題になつてゐるのは、青年官吏といふが如く、自由に競争する
餞地が少く、派閥とか官学私学の差別とかいふやうな封建的な残存物の弊が多く存在してゐる場
楓鹿
合である。今日の青年官吏は彼等の先輩たちと同様の速度で昇進することができず、先が詰つて
ゐる。彼等は個人的利害から云つても封建的なものが除かれることを望まずにはゐられない0そ
してもはや昔のやうな昇進を夢みるやうなことができなくなつた彼等はせめて思う存分仕事がし
たいといふ欲望を感ずるであらう。彼等の周囲の杜禽の情勢はまたこのことを要求してゐるやう
に見える。かくて彼等の個人的利審と杜曾の情勢とは結合して、彼等に向つて官界の改革を要求
せしめるに至つてゐる。
一般的に云つて、青年が問題になるのは封建的なものに封する関係においてであることが多い○
例へは、道徳について青年が問題にされ、現代の青年の道徳的意廟が非難される0確かにこのや
ぅに非難されて然るべき鮎もあらう。けれどもまたそのやうな非難が賛は封建的道徳の規準から
なされてゐることが少くないのである。封建的な家族制度や身分観念等は必然的に攣化すべき運
命におかれてゐる。この攣化を代表してゐるのが青年である。従つて不道徳として非難されてゐ
ることに却つて健康なもの、或ひは眞に健全な道徳の萌芽を含んでゐるものもあるのであつて、
このことは特に今日の婦人の場合について云ひ得るであらう。尤も、そのやうに肯い道徳を破壊
しっっぁる青年に新しい倫理が確立されてゐるわけでない。倫理の喪失は青年の著しい一つの特
青年に就いて
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二三入
放であり、青年の混乱として人の眼に映ずるものの最も大きなものの一つである。しかるにこの
とき注意さるべきことがある。先づ、封建的なものに封する封立は我が国においては東洋的なも
のに封する封立を意味する。それ故に西洋的なものに封する東洋的なものの特殊性が何等かの仕
方で認められねはならぬとすれは、この問題は複雑微妙な性質を帯びてゐる。今日の青年の心理
の混乱のひとつの原因がここにある。次に、封建的なものに封する青年は自由主義を代表するも
のと考へられる。ところが若い世代のこのやうな自由主義は政治的滋に経済的自由主義とは殆ど
何等関係のないものである。資本主義杜合の行詰りの産物であると云つてもよいこの世代は、資
本家的自由主義に封して信用をおいてゐない。若い世代のこの自由主義を文化的自由主義と稲す
るのでさへ不通嘗である。彼等が文化主義者であるかのやうに見えるとすれは、それは政治的関
心正に活動の自由の蓉現を禁じられてゐる結果生じた消極的な文化主義である。苦い世代の自由
主義の資質はヒューマニズムである。それはヒューマニズムとして東洋古来の自然主義に封して
封立すると見られることができる。若い世代の自由主義は東洋的自然主義との関係において青年
の心理に特殊な陰影を輿へてゐる。
さて青年が歴史的に意義を有するのは、彼等がまさに青年として侍統に縛られることなく新し
い創造の主憶となり得る為であらう。世代が攣ることは歴史的活動の主饅が攣ることである。今
日青年が問題になるのは、かくの如き杜禽の更新力としてでなければならぬ。しかし、このこと
は人間の生物学的な誕生と死とが歴史の薔展の基礎であるといふ − 「我々の杜禽の進行は本質
的に死を基礎とする」とコントは云つた − が如きことを謂ふのではない。歴史は決して軍に生
物学的な過程ではない。歴史・生物学的な世代理論は、如何に巧妙に粉飾されようとも、かの風
土史観と同様の誤謬に陥る。青年の革命性を歴史・生物学的に主張する青年論は、現代において
はファッショ的非合理主義の一形態として現はれ得るものである。既に度々述べた如く、世代と
いふものも歴史的杜禽的に規定されたものである。それのみでなく、青年といふのは世代のこと
であるとしても、この世代といふのはいはは自然蚤生的な集囲であつて、目的意識的に組織され
た囲憶であるのではない。かくて我々は一方、種々なる囲憶組織を通じてそのうちに含まれる青
年の世代的統一の重要性を透察することが必要である。かくの如き謂はば眼に見えぬ力として青
年があらゆる時代に革新的に働いてゐることに注意しなければならぬ。しかし他方、革新的と考
へられる青年も組織に結び付いて初めて重要な意義を有するに至るといふことに注意することが
必要である。右の事情を今日特に問題となつてゐる青年官吏や青年肺校といふものが示してゐる。
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これらの青年はいづれも一定の囲憶組織に結び付いたものである。この組織は労働囲髄の如きも
のとは性質を異にするが、官吏や婿校は知的ルンペンと辞せられる無組織の多くのインテリゲン
チャの如きものではない。しかるにこのやうに組織と結び付いて初めて青年が現質的なものとし
て問題になることを注意した者は、一歩を進めて青年論を一層具慣的な杜曾的地盤に移さなけれ
はならない。即ち杜合階級論の立場におかれるのでなけれは、青年論は抽象的に終らねはならぬ
であらう。
1
▲
.矩蚊絹づ増題当