大学とアカデミズム
大学がアカデミックであるのは当然であらう。アカデミックであることをやめて大学は何になるのであらうか。アカデミズムに対する種々の非難が存在するにも拘らず、我が国の大学の欠陥は寧ろ十分にアカデミックでないところにあるといひ得るであらう。アカデミズムを非難する前に、ひとは先づこの国の大学が果してそれほどアカデミックであるかどうかを考へねばならぬ。
アカデミズムの特色は例へば伝統の尊重である。ところが日本においては西洋の学問の移植以来未だ確固たる学問の伝統が存在せず、従つて真のアカデミズムは確立されてゐない。アカデミズムは学問の伝統の存在を予想してゐる。今日の我が国の大学の不幸は、漸く学問の伝統を作り始めようとした時アカデミズムそのものが問題になるやうな社会的情勢におかれたといふことである。かかる一般的な歴史的社会的状況を別にしても、学問の伝統の成立に必要な学派といふものが我が国には存在しない。個々の大学は学閥を形成してゐるけれども、学派を代表してゐるのではない。かやうな状態において真のアカデミズムが発達し得るであらうか。一般に学問の伝統に乏しく、特に学派の伝統の存しない現代日本においては、伝統の厳しさといふものが十分に理解されてゐない。伝統の厳しさがなくしてアカデミズムがあるのであらうか。
一層形式的な方面から見ても、我が国の大学においてはアカデミズムの欲するやうな古典の継承といふことが十分に行はれてゐない。古典を継ぎ、古典によつて養はれるといふことがアカデミズムの重要な意義である。しかるに我々の間では古典を研究するよりも最新流行の学説に一層多く関心するといふ傾向が甚だ弱い。ジャーナリズムを軽蔑する学者が学問の世界においては自らジャーナリストであるといふこと、即ち日々の新刊書や新刊雑誌に憂身をやつしてゐるといふことが稀でないであらう。かやうな状態が生じてゐるのも、古典を理解し評価する地盤となるべき学問の伝統、特に学派の伝統が存在しない故である。
アカデミズムは現実の社会に対する関心に乏しいと云つて非難される。しかし短所は同時に長所となり得るものである。現実に対する関心が現在のジャーナリズムに見られる如くトリヴィアリズムに堕す危険を有するとき、アカデミズムが一層高い立場から純粋な理論的問題に関心するといふことは意義のあることであらう。しかるに今日の我が国の大学の学問の欠陥は余りに抽象的理論的であるといふことにあるのでなく、反対に余りに抽象的理論的でないといふことにある。日本ほど純粋な理論家に乏しい国はないであらう。大学は理論の意味を理解せしめ、理論的意識を養成すべきであるに拘らず、この大学においても理論家は甚だ少いのである。
理論を抽象的として軽蔑するのは日本人の悪い癖である。実際的であるといふことは日本的性格の著しいものとされてゐるが、理論が理論として有する意味の重要性が理解されないところでは真のアカデミズムは発達し得ないであらう。我が国の大学において非難さるべきものは実際的関心に乏しいアカデミズムであるよりも寧ろ学問に対する余りに功利的な考へ方である。
今日の大学はもはや理論を与へるものでなく、ただ技術を授けるものであり、そのことが大学の唯一の意義であると云はれてゐる。技術の完成はアカデミズムの特色であり、技術を除いてアカデミズムは考へられないであらう。ひとは大学において技術を習得しなければならぬ。しかし技術には実際的技術のみでなく、理論的技術もある。そして大学と専門学校とが区別さるべきであるならば、大学は単に実際的技術に留まらず、寧ろ理論的技術を与へなければならぬ。今日の大学に欠けてゐるのはこの後の点である。すべての技術は伝統の広さの有するところにおいて最もよく学ばれることができる。しかるにかやうな伝統特に理論の伝統に乏しい日本の大学においては、技術的完全といふ意味においてもなほ十分にアカデミックであるとは云ひ難いであらう。あらゆる技術には形式的なところがある。形式の厳しさを除いて技術はない。そこからまたアカデミズムの悪い結果として形式主義も生じてくる。しかし技術は本来単に形式的なものであるのではない。技術が単なる形式主義に堕するといふことは技術がその本来の機能を失つたことを意味してゐる。
かやうにして日本の大学においてはアカデミズムが十分に発達してをらず、アカデミズムを確立することが寧ろその任務であると云ふことができる。もちろんそこにはアカデミックなところも存在するが、それは多くの場合頸末なことに関してゐる。頸末主義はアカデミズムの陥り易い弊害である。殊に最近次第に著しくなりつつある畸形的な専門化の傾向が指摘されねばならぬ。専門化すること自体が悪いのではない。しかし専門化は一般的な見通しと綜合的な知識とを根柢として、その上における分化として初めて真の意義を発揮し得るのである。理論と思想との貧困に基く畸形的な専門化が現在の大学の学問の次第に著しくなりつつある傾向である。しかるに大学とはその名(ユニヴァーシティ)の如く普遍的教養を意味する。知識の綜合性を失ふといふことは大学の本質を失ふといふことに等しく、そこに我が国の大学の大きな欠陥がある。
専門の意味を知らない専門化は悪しきアカデミズムである。しかも今日見られる専門化は理論と思想とを回避するために行はれてゐる場合が尠くない。それは客観的には政治的圧力に基き、主体的にはインテリゲンチャの無確信に基いてゐる。アカデミズムは現実を回避するのみでなく、理論をも回避しようとしてゐるのである。
社会の発展の方向が明瞭であり従つて一定の世界観をいはば自明のものとして前提し得る時代においては、専門家は自己の存在の意義について反省することを要しないであらう。またそのやうな時代においては、大学の存在はいはば自然的に社会と有機的な関係を有し、学問の大衆性についても思ひ煩ふことを要しないであらう。更にそのやうな時代においては如何なる見地から古典を摂取し継承すべきであるかもおのづから定められてゐる。即ち一言で云へば、社会の均衡期、文化の開花期においてはアカデミズムはその十分な意義を発揮し得るのである。
しかるに現代の如く社会のうちに矛盾が現はれ、世界観の分裂が生ずるとき、アカデミズムの意義が問題になつてくる。アカデミズムの拠つて立つてゐる伝統に動揺が生ずるのである。このときアカデミズムは次第に全く形式的なものとなつてくる。大学はもはや世界観の問題に対して無関心であることができなくなる。
批判的精神は当然起らざるを得ず、大きくならざるを得ない。しかるにアカデミズムそのものはかやうな批判的精神に乏しく、却つて批判的精紳を抑圧することになり易い。なぜならアカデミズムは伝統的であり、権威主義の傾向を含むからである。
かくして重ねて云へば、現在我が国の大学の不幸は、未だアカデミズムの伝統が確立されてゐない時に当つて既にアカデミズムそのものが問題にされるやうになつてゐるといふことにある。アカデミズム以上に出ることを欲することなくしては今日真のアカデミズムも不可能になつてゐる。